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【5月24日(土)】  若き日の福澤諭吉
   若き日の福澤諭吉(ゆきち)〈1〉   【5月24日(土)】

 福澤諭吉が蘭学を始めることになったのは19歳のときだった。(安政元年・1854年)
帆足万里(ほあしばんり)に儒学を学んでいた兄・三之助が、自分の代わりに長崎に行ってオランダ流の砲術を学ぶように勧めたからだった。
前の年(嘉永(かえい)6年・1853年)ペリーが来航して以来、外国の脅威備えて砲術の必要性がにわかに叫ばれ始めていた。
諭吉はそれまで漢書を学んでいたが、特に難解といわれている「左氏伝」(さしでん)を15巻すべて通読し、それも11回も読み返しすべて暗記していたようです。
 
 長崎に遊学した諭吉は、薩摩藩から長崎に学びに来ていた松浦鼎甫(ていほ)という医学生について学び始めたが、すぐに物足りなくなり、学に優れているといううわさを聞けばだれかれかまわず訪ねて行き教えを乞うたようです。
その後、高島流砲術(ほうじゅつ)の流れを汲む砲術家の山本物次郎(ものじろう)の家に食客(しょっかく)として入り込み、すぐにその家の一切を取り仕切るようになった。
しかし好事魔多(こうじまおお)しというように、彼の成長を(ねた)むものが策を(ろう)し中津藩(大分県)へ帰るように仕組んだ。
しかし中津藩に帰る気のしない諭吉は江戸で勉強しようと、友達の(つて)を頼って江戸へ向かった。

 途中、当時大阪にいた兄・三之助の下に立ち寄ったところ反対され、大阪で緒方洪庵(おがたこうあん)
適塾(てきじゅく)
で学ぶことになった。
388人目の弟子
だったようです。ここからが本当の蘭学修行であった。(安政2年・1855年
 
 このころの勉強の仕方は、先生の授業を聞くのではなく、「会読」(かいどく)という方法であった。
これは皆の前で自分の分担分の原書を読み、訳し意味を説明するというやり方だった
これが月に6度ぐらいあった。一見簡単なようであるがこれがなかなか大変なことであた。

 まず、会読に決められた原書は一冊しかなかったから、それぞれが写し取って会読に臨まなければならなかった
原書を読みくだくには、辞書に頼るしかほかに道はなかったが、その辞書も一冊しかなかった
しかも分からないからといって、誰かに聞くことは出来ない。
  会読本については一言半句(いちごんはんく)も他人に聞くことはご法度(はっと)だった
 
 だから当の諭吉むさぼるように勉強している。ほとんど昼夜の区別もなく、日が暮れたからといって寝ようともせず、読書に疲れて眠くなれば、机に()()して眠った。
 布団を敷き、夜具(やぐ)をかけて枕をして寝たことはただの一度もなかったようです。


 すさまじい学習量です。これだけ真剣にやればかなりのことが出来るはずです。
しかし不幸なことに安政3年(1856年)3月腸チフスにかかり緒方洪庵の必死の治療のもとやっと回復したが、その年9月に、兄三之助が死んでしまい中津に帰ることになり、「適塾」での学習は一時中断ということになる。

 時代が違うから当然といえば当然ですが、今の我々がいかに学習環境に恵まれているか改めて痛感します。
何かが足りないから勉強できない」なんてのは単なる甘えに過ぎないということがよくわかります。
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