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【4月28日(月)】  日英同盟
  日英同盟     【4月28日(月)】 

 1862年(文久2年)神奈川近くの生麦村(なまむぎむら)で、薩摩の島津久光の行列へ暴走した馬に乗って突っ込んできたイギリス人を、薩摩藩士が無礼討ちにするという事件が起こりました。(生麦事件)
この時イギリスは、イギリス人を殺傷したことに対して賠償金を幕府と薩摩に対して請求してきました。
幕府はイギリスの圧力に屈して賠償金を払いましたが、薩摩藩は上意討(じょういうち)ちは武士の習い」として要求突っぱねました。
 
 翌1863年6月イギリスは薩摩本国へ艦隊を送ってきて薩英戦争に発展します。
多少威嚇(いかく)すれば簡単に賠償金が取れると考えていたイギリスでしたが、薩摩藩の抵抗が意外に強くて思惑どうりにはいかず、遂にイギリス艦隊の艦長が戦死してしまい、イギリス艦隊は(いかり)を切って逃げていってしまいました。
「錨を切る」ということは、欧米の海軍では敗走(はいそう)と同じ不名誉なことです。

 その結果、イギリス人は日本は他の東洋とはちょっと違うぞという感触を持ったようです。
その後日清戦争(1894年)の勝利もあり、また北清事変での軍機厳正な日本軍の戦いぶりに、この国となら対等の条約を結んでも大丈夫だし、ロシアの備えにもなると判断し、当時の世界を驚愕させるような対等な軍事同盟日英同盟(1902年)を締結することになります。

 薩摩藩の毅然とした一連の対応日本人として恥ずかしいことはしないという意識、これがイギリスの信頼を勝ち取り、当時他の国とは平等の条約など絶対に結ばなかったイギリスが、日本とだけは平等の軍事同盟を結ぶことになった。
まさに当時の「日本の品格」が世界のイギリスに認められた瞬間だといえます。
 事なかれ主義の多い昨今ですが、世界への対応を考える上で大いに考えさせられる事件です。


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【4月27日(日)】  品格ある人         

  品格ある人      【4月27日(日)】


 『私たちは何らかの壁にぶつかると、それが自分の手におえそうもないとき、無条件降伏し、やりたいことを「諦める理由」を探し始めるものである
「諦める理由」を探すのに賭ける情熱をやりたいことに注げば、どんなに人生は好転していくかと私は考えるのであるが、
  とかく人は「
できない理由」をつけて挑戦することをやめるのである。
べつに
この程度でいいやと変に納得してしう
   
後は何とも煮え切らない人生が待っているだけというのに
どんな仕事、職業であれ、
一流の域に達した「品格ある人」に共通しているのは、
  少々困難であっても、簡単には投げ出さないことである。』
 
 「
諦める理由」を探して壁から逃げているという指摘に思い当たる人はいませんか。私にも思い当たる節が多々あります。
 次の一文を読んで今までを反省し、今後に活かしていきたいものです。

 『
物事を簡単に諦めるという傾向は最近の人に見られがちである。
これはその人がこれまでに一つのことに真剣に取り組んだことがあまりないために、自分にできることとできなことが分からず、必要以上に臆病(おくびょう)になっているに過ぎないのではないか。
   「できない理由」
など探し始めたらきりがない。そこをグッと抑えて、
やるための意義を見つけていくこと
人生の醍醐味(だいごみ)なのである。
 

 品格
は形に現れる。「40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」とは、
      
リンカーンのことばだが、まさにこのこと。
諦めず、いかなる心構えで毎日を過ごすか。
そして
自分のやりたいことを突き詰め、それを「一芸に秀でる」まで
   押し上げると、具体的に
「品格ある」顔立ちになっていく。』 

人生で一番大事なことは何か、一つあげよと問われたら、私は躊躇(ちゅうちょ)なく
   「できない(やらない)理由を探すことなく
     志
(    こころざし)
を保ち、自分で自分を尊敬できる人間になれ。」

と言いたい。
     これが
私の考える「自分の品格」でもある。』

               渡辺 昇一 著  「自分の品格」 
より

【4月26日(土)】  人の一生

【4月26日(土)】  
 「人の一生」

 『人の一生は、重荷(おもに)を負うて遠き道を行くが(ごと)
    急ぐべからず。 不自由を常と思えば不足なく、
  心に望みおこらば困窮(こんきゅう)したるときを思い出すべし。      堪忍は無事長久(かんにん  ぶじちょうきゅう)の基。怒りは敵と思え。                                         
勝つことばかりを知って負くることを知らざれば
           害その身に至る。             
 (おのれ)をせめて人を責むるな。   
          及ばざるは過ぎたるより(すぐ)
れたり。』  
徳川家康の遺訓
といわれていますが、さすがにいいことを言ってくれています。  

 我々も生きていく上で「重荷」を背負っているのですから、楽なはずはなく、それを覚悟で
急ぐことなく一歩一歩進んでいく必要があるでしょう。  

 養老孟司(ようろう たけし)氏は「バカの壁」の中で、上の家康の言葉を参考に
『人生は「遠き道」を行くどころか、「崖登(がけのぼ)り」だと思っています。        崖登りは苦しいけれど、
    一歩上がれば視界がそれだけ開けてくる。    
       しかし、一歩上るのは大変です。  
手を離したら先仞(せんじん)の谷底にまっ(さか)さまです。                 人生とはそういうものだと思う。』 
 と語っています。   

 「生きる」というのはいずれにしても大変ではありますが、家康は「及(およ)ばざるは過ぎたるより優れたり」と言っています。自分の「及ばざる」点に自信をなくすのではなく、それを補う意味でも努力を重ねることで活路が見出せると励ましてくれています。       頑張っていきましょう。

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【4月24日(木)】   公平と平等
【4月24日(木)】   公平と平等

 福沢諭吉「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といっていますが、我々は「公平と平等」は当然与えられるものとして考えているように思います。
しかし、曽野綾子(その あやこ)氏は世界の悲惨な現状を見た上で次のように警告しておられます。(産経新聞)

 『私たちの生きる人生は、すべて平等と公平ではない
健康、体格、性格、生まれた家庭、所属する国家ど、
    どの点をとっても平等でも公平でもないのだ。
 
だから平等と公平は、あまり教える必要はないと私は思っている。
それより現実に必要なのは、

   平等と公平ではない現実にどうやって耐え、
 最終的にでき得る限りの平等と公平に近づけるかなのだ。

 
 『政治や社会が、平等と公平を目指すのは当然だが、現実は必ず不平等で不公平なのである
それなのに、完全な公平と平等が簡単に手に入ると思わせる甘い教育をして、その状態が実現しないと、それは政治の貧困や格差社会のゆえに救いようがないほど不幸なのだ、と教えるほうがずっと残酷だ、と私は思って生きてきた。』


 『不平等、不公平に耐えて、平等と公平を目指す強靭(きょうじん)(たましい)の教育を始めないのは、日本人にとって本当は不幸なことだ。』

 福沢諭吉「学問のすすめ」の中で「天は富貴(ふうき)を人に与えずして、これをその人の働きに与ふるものなり」といっています。
  すべて自分の努力と工夫勝ち取っていく必要があるでしょう。

【4月23日(水)】   「真の男」を求める
【4月23日(水)】   「真の男」を求める

 「空前の自由の時代を生きる女が最後に望むのは
     自由を捨てる価値のある男
出会うことだと思う。

    時代は再び不確実な混乱を迎えつつある。
男性には(おく)することなく、強く、魅力的であることを目指していただきたい

            (しん)の男が求められる時代が来ている。」      
        
               漫画家   さかもと未明(みめい) (4月23日 産経新聞)

 男の子諸君よ、この呼びかけに何と答える。ただ一朝一夕には男を磨くことはできません。
日頃から、それぞれの「」にきちんと向き合い、今なすべきことは何かを考え
自由を捨てる価値ある男といわれるように努力してみようではありませんか。
 幕末の男たちは、まさに文字どうり「男を磨くため」に出会いを求めて日本中を走り回っています

 渡部昇一氏は「自分の品格」の中で次のように言っています。
自分の手に負えそうにない壁にぶつかっても、
        けっして(あきら)めないことである。

私の経験から言って、今は難しくてすぐ実現できなくても,

 「いつか必ず自分にはできる!」
「やるための理由、手段」
絶えず求めて努力する人には、不思議なことに、
   天の一角から“
助けのロープ”が下りてくるものである。』

 
松下幸之助も言ってました。
   「休まず歩く姿からは必ず新たな道が開けてくる。」 (4月3日)


【4月22日(火)】  学問のすすめ
【4月22日(火)】   学問のすすめ

   『天は人の上に人を(つく)らず、
           人の下に人を造らず』


 有名な福沢諭吉「学問のすすめ」冒頭の言葉です。ただこの後の言葉がもっと大事です。

「されど今広くこの人間世界を見渡すに、(かしこ)き人もあり、おろかなる人もあり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人(げにん)もありて、そのありさま雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや
その次第(しだい)、はなはだ明かなり。
実語教(じつごきょう)」に、“人学ばざれば智なし智なき者は愚人(ぐじん)なり。”とあり。
 されば 賢人と愚人との別は、
       学ぶと学ばざるによってできるものなり
。」

 現実の生きている人に差があることに対しさらに次のように結論付けています。

「その(もと)を尋ぬれば、ただその人に学問の力あるとなきとによりて
   その相違もできたるのみ
にて、天より定めたる約束にあらず。
ことわざにいわく、“天は富貴(ふうき)を人に与えずして、
     これをその人の働きに与ふるものなり”
と。

されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賎(きせん)、貧富の別なし。
 ただ学問を(つと)めて物事を良く知るものは、貴人となり
  富人
(ふじん)
となり、無学なる者は、貧人となり下人(げにん)となるなり
。」

 ずいぶんはっきり言ってくれます。
現代の我々の感覚から言うと多少引っかかるところはありますが、当時の厳しい身分制度に煮え湯を飲まされてきた福沢諭吉にすれば、学問をすることが現状打開の最良の方策であったことは
理解できます。
厳しい身分制度の撤廃された現在の我々は、諭吉から見れば天国に生きているように感じられることでしょう。
我々は先人が勝ち取ってくれたこの世界でも(たぐい)まれな恵まれた環境を、感謝しながら有効に活かしていく必要があろうと思います。

【4月21日(月)】  「学ぶということ」
【4月21日(月)】   「学ぶということ」

 中江藤樹(とうじゅ)の言「学ぶということは、(みず)(さと)ることだ」
というのがあります。
       すなわち「学」「覚」だというのであります。
人間(まな)ばないと迷睡(めいすい)昏々(こんこん)たり」で、つまらぬことにどこまでも迷って、
  ぼんやり眠っておるのと同然、何もわからない

しかし「学べば明覚(めいかく)惺々(せいせい)たり」。
               星が輝いているように心中明るく()える

 学んでも()めなければこれは学ばざるに等しい
   だから、まず自ら(かえ)って(さと)ろうといっています。


  『孟子』の中でも「君子は必ず自ら(かえ)る」といっています。
まず(みず)らが自らに(かえ)る、自分が自分に反る、人間が人間に反って、

       自分を磨く、自分を養う、人間をつくる

そこからはじめて本当(せい)、生きるということが生ずるのであります。


                   安岡 正篤 著  「人間学のすすめ」 より

【4月20日(日)】  山田方谷(2)
【4月20日(日)】  山田方谷(ほうこく)(2)

 1849年(嘉永2年)財務大臣たる元締め役に抜擢された方谷(ほうこく)は、必ずしも乗り気ではありませんでした。
藩主の信頼が厚く、元武士の出ながら、地元の百姓出身で、藩校の学頭とはいえ農民出身の儒学者にすぎない方谷には、周りの反発が相当あったようです。
しかし、方谷の判断は「わが意思」であり、方谷に逆らえば厳罰を持って臨むという藩主勝静(かつきよ)の断固とした支持によって改革に踏み出すことになります。

 まず藩の財政を調べてみると、知行高(ちぎょうだか)五万石とは名ばかり、実質は一万九千三百石の歳入しかなかった。しかも借金が十万両(数百億円)に達していた。
 財政立て直しといえば、まずとられる措置は「節約」であった。吉宗の享保(きょうほ)の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革、上杉鷹山(ようざん)の改革もすべて「節約」であった。
方谷(ほうこく)倹約令は出してはいたが、財政だけに目を奪われることなく、陽明学を基盤とする学問的下地に裏打ちされた深謀遠慮で、藩政全般の改革を視野にいれ確固として実行に移していった。
 
 まずは、綱紀を整え、政令を明らかにするのが「義」であるが、その「」をあきらかせずに「」である飢餓(きが)を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。
事の外に立って
目前の飢餓を気にせずに義と利の分別(ふんべつ)がつけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなる
ことを説いた。

 次に、天下の士風が衰え、賄賂(わいろ)が公然と行われたり、をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。
 
 この基本方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。

(1) まずは、今で言う情報公開を行い、多くの反対があったが誠実にの窮状と産業振興などによる財政健全化の打開策を訴え、債務の  50年返済延期を頼み込んだ(ただし、改革の成功によって数年後には完済している)。

(2) また、大坂蔵屋敷(くらやしき)を廃止して領内に蔵を移設し、蔵屋敷の維持費約千両の倹約と、、堂島(どうじま)米市場の動向  に左右されずに平には最も有利な市場で米や特産品を売却し利益を上げ、さらに災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。  蔵屋敷の廃止は一石三鳥にもなった。

(3) もちろん質素倹約も奨励し、上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂をける事を禁じて発覚した場  合には没収させた。節約の仕様がない下級武士や、農民は対象から外れていた。

(4) さらに、多額の発行によって信用を失った藩札を回収し、公衆の面前で焼き捨てた
  代わりに新しい藩札(はんつ)を発行して藩に兌換(だか)を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用  度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
 

(5) また、領内で取れる砂鉄から備中鍬(びっちゅうぐわ)を生産させ、またタバコ和紙柚餅子(ゆべ)などの特産品を開発し  て「撫育局(ぶいくきょく)」を設置して一種の専売制を導入した。
  だが、他藩の専売制とは逆に生産に関しては産者利益視さて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。

 

(6) つまり、これら特産品を商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大坂を避けて藩所有の艦船蒸気船「快風丸」)で直接江戸  へ運び、藩邸内施設内で江戸や関東近辺((くわ)は農村の需要が高かったの商人直接販売した。

  これによって中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに航海術を学ばせた。(ちなみに板倉家の同族である安中藩(  あんなかはん)の家臣であた若き日の新島襄もこの航海演習に参加したことがあるという)。

 

 ただこうした改革がすべて順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に行われたわけではなかった。

当時の幕藩体制ではありえなかった(武士)が商業を手がけることに対して非難の声を受ける事もあったが、あくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するめの手段であるとしてこの批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。

現在の政治家にすこしは見習ってもらいたいものです。

 安政4年(1857)までの8年間産業振興を中軸行、財政、兵制、教育の各分野の改革を計画的に進め、ものの見事に改革を成し遂げてしまいました。
その結果、十万両の借金はすべて返済しその上財十万両を溜め込んだといわれます。
松山藩の収入は20万石に匹敵すると言われるようになり、農村においても生活に困窮するものはいなくなったという。
すごい男です。 勉強して何かをつかむと、こんなすごいことが出来るのです。
 
 安政4年、この藩政改革の成功をもとに、勝静(つよ)寺社奉行となる。
勝静はさらに老中へと進み、徳川幕府最後の老中首座となり、幕政の中心人物となる。
方谷はその政治顧問として国政の舞台で活躍する。
 安政5年長州藩士久坂玄瑞(げんずい)、翌安政6年長岡藩士河井継之助(つぐのすけ)が来る。
河井継之助は戊辰戦争(ぼしんせんそう)負傷して亡くなるとき、 
 「備中松山に行くことがあれば方谷(ほうこく)先生に伝えてくれ、
           生涯先生の教えを守ったと」

     といって息を引き取ったそうです。

 こうして、藩主・板倉勝静山田方谷のコンビは激動の幕末を乗り切っていきます。

【4月19日(土)】   山田方谷(1)
【4月19日(土)】   山田方谷(ほうこく)(1)

 
方谷は1805年備中松山藩領の西方村で生まれた
家庭は、庄屋に次ぐ地位の(おさ)百姓で、二男一女の長男として育った。
両親はこの子を5歳のころ、隣の新見藩の儒教学者丸川松隠(しょういん)に預けた。
この丸川松隠中井竹山の弟子であり、同じく中井竹山に師事した佐藤一斎(いっさい)の先輩同門であった。
しかし、なかなか優秀で老中首座の地位にあった松平定信から幕府仕官の打診があったほどですが、義理ある新見藩に仕官したようです。
 この丸川松隠のもとで方谷は、神童の名をほしいままにしながら学業をつんだようです。
しかし父母を16歳のときに亡くし、家を継ぎ、兼業の油屋稼業にもにもいそしんでいたが、21歳のとき藩主板倉勝職(かつつね)に認められ藩校有終館で学ぶことを許された。
さらに京都で朱子学を学び、江戸へ下って佐藤一斎へ入門し、全国からそうそうたるメンバーが集まる中で、塾頭を勤めるまでになる。特に佐久間象山と、一斎門下の竜虎とうたわれた。
ここで3年学んだ谷は帰郷後有終館学頭に任じられる。一斎門下で陽明学に深く接し、物事の本質に迫ることを学んだことが、後の改革を手がけるときに大いに役立ったようです。

 藩政改革といえば、米沢藩の上杉治憲(はるのり)鷹山(ようざん))が全国的に有名だが、わが備中松山藩にも、どっこいそれに勝るとも劣らない山田方谷の改革があります。
 
 
 方谷(ほうこく)の藩政改革の話に入る前にこの備中松山藩の前の水谷藩(   みずのやはん)について少し。
江戸初、中期の水谷藩(みずのや)は、高梁川の水路の整備を含め数々の善政を行ったが、三代で血筋がとぎれ、お家断絶、城明け渡しとなった。
この時、幕府に命じられて城受け取りに来たのが、なんと播州赤穂藩の家老大石内蔵助(くらのすけ)で、一方城方の家老が鶴見内蔵助(くらのすけ)であった。
城明け渡しという家臣にとっては、生活の(かて)を奪われる大事件を当事者として体験した赤穂藩であったにもかかわらず、そのわずか7年後に浅野内匠(たくみのかみ)の刃傷事件で城明け渡しを迫られることになった。
ならぬ堪忍(かんにん)、するが堪忍」といいますが、内匠頭(たくみのかみ)の堪忍はなんとかならなかったのでしょうか。

 
その後、安藤家、石川家と続き、1744年伊勢亀山藩より板倉勝澄(かつずみ)が5万石で入封してきた。
板倉家京都所司代を勤めた名門板倉勝重末裔(まつえい)ですが、六代板倉勝職(かつつね)に子がなく、伊勢桑名(くわな)藩から松平定永八男・万之進を養子として迎えた。七代藩主となる松平勝静(かつきよ)である。
ちなみに勝静(かつきよ)松平定信の孫に当たり.定信吉宗の孫に当たります。
2年後藩へお国入りした勝静(かつきよ)(22歳)は当時藩校有終館の学頭だった山田方谷(ほうこく)(40歳)に師事し、きびしく指導された。
 この勝静(かつきよ)山田方谷を藩の財務大臣たる元締め役に任命したのは1849年(嘉永2年)のことだった。
当時は貧乏板倉のかごは(かつ)ぐなと街道筋のかご屋にも悪口を言われるほど危機に(ひん)していた藩財政であった。
さてこれから藩政改革に本格的に取り組みますがその話は明日。

【4月17日(木)】     藤田東湖

【4月17日(木)】     藤田東湖(とうこ)

 篤姫の嫁入り衣装の買い付けをまかされた西郷でしたが、「水戸を学べ」と言う斉彬(なりあきら)の勧めもあって、このころ盛んに水戸の藤田東湖(とうこ)と接触して知識を吸収しています。
西郷(28歳)が始めて東湖の元を訪れたのは1854年(安政元年)4月10日のことです。
ちょうどこの日は、松陰(24歳)が下田獄から象山の待つ伝馬町(てんまちょう)獄に移送され、泉岳寺の前で「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(やまとだましい)」と()んだその日でした。
 片や希望に燃えて新しい友を訪ね,片や夢破れて犯罪者となって牢に送られる。
まさに時代の英雄の「明」と「暗」のすれ違いの日だったようです。
 
 ところで西郷東湖に最初にあっ時の感想を薩摩の叔父にあてた手紙の中で次のように書いています。

「先生(東湖)のお宅を伺った時は、まるで清水を浴びたような気持ちになり、心中一点の雲霞(うんか)もなく、ただ清浄な気持ちとなり、帰り(みち)まで忘れてしまうほどで。」
 と非常に感銘を受けた様子が記されています。

 このように、初対面以来、東湖に対する西郷の傾倒ぶりは日増しに高くなっていきました。
また、そこで戸田蓬軒(ほうけん)などの水戸の名士と盛んに交流し、西郷自身の人格形成に大きな影響を与えたようです。

 藤田東湖は徳川斉昭の側近を務め、戸田蓬軒(ほうけん)とともにその懐刀(ふところがたな)として活躍しました。
1853年斉昭幕政海防参与に任じられたときは、東湖も幕府から海防御用掛(ごようがかり)に任じられ、攘夷の政策立案にかかわっています。
 天下の諸侯の中で最初に東湖にほれたのは、信州松代(まつしろ)藩の真田幸貫(さなだ ゆきつら)で、次いで肥前の鍋島閑艘(なべしま かんそう)、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬などが彼を認めだしました。
各藩の藩士では、越前の橋本佐内、肥後の横井小楠(しょうなん)、松代の佐久間象山など多士済々の面々が東湖の元を訪れています。
 
 しかし残念なことに安政2年のいわゆる「安政の大地震」で東湖は母を救い出すため自分が犠牲になって亡くなっています。
東湖をなくした水戸藩は、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清(しゅくせい)が吹き荒れ、維新を迎えたころには、ほとんど有為な人材は残っていませんでした。
 歴史に「もし」はありませんが、「もし」東湖が生きておれば、違った歴史の局面が見られた感じがしてなりません。
返す返すも残念なことです。

【4月18日(金)】   徳川斉昭

【4月18日(金)】   烈公(れっこう)徳川斉昭(なりあき)

  篤姫(あつひめ)の将軍家御台所(みだいどころ)に、反対の意向を漏らす斉昭や、攘夷をいかにも憎憎(にくく)しげに唱える斉昭は悪役めいて見えますが、この時代なかなかの人物だったようです。

 

 徳川斉昭は第8代藩主斉修(りのぶ)の弟。兄が子を残さず没したために第9代藩主となった。

彼が藩主になった天保期(1830-43年)はどこの藩でも財政が破綻していた。

彼は改革派である下級・中級藩士を登用して、門閥派(もんばつは)の反抗にあいがらもただちに藩政改革をはじめた。

尊皇の思想によって藩権力を強化し、儒教の愛民政策によって農村を回復しようとした。

「全領検地」を行い、農地の境界を明確にし農民の間にある年貢の不公平を改めた。
さらに農民の労苦をしのび、農人形(お百姓)をつくって朝夕感謝をこめて初の一箸をこの人形に供えてから食事をとられた。お子様にも皆これに習わせられたという。
       「朝な夕な 飯くふごと 忘れじな

               めぐまぬ民に まぐまるるみ」

また、家臣を地方に土着させて耕作させるとともに、武備を強化した。

これは一揆などに備えるだけでなく、異国船に備えるためでもあった

こうして早くから異国に対する対策をしていたようです。

 

 余談になりますが、わが備中松山藩でもあの有名な山田方谷(ほうこく)が、城下近くの交通の要地を藩士自らに開墾させ、新たな農地、畑地を作り、そこに実際に武士を住まわせ、あらたな耕作地の確保と、万一戦いになった場合に、攻防の所に藩士が住んでいるという両得を考えた改革を行っている。これが1850年ごろですから、斉昭の先見性に感心させられます。
 

 学校の開設による文武奨励改革の目玉だった。弘道館水戸城下に開校された藩校であるが(1841年仮開校)、広大な敷地を有し、江戸後期に設立された藩校としては最も有名である。

 しかしこうした改革も、改革の行き過ぎと藩内の抗争を嫌う幕府から致仕(ちし)謹慎を命じられ、藩主の座は長子の慶篤(よしつ)に移された。 

 嘉永6年(1853年)6月ペリー浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により海防参として幕に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。

安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられるが、同年の安政の大地震藤田東湖戸田忠太夫らブレーンが事故死てしまうなどの不幸もあった。

安政4年(1857年)に阿部正弘が死去して堀田正睦(まさよし)が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立する。

 

 さらに第13代将軍・徳川家定将軍継嗣問題で、徳川慶福(よしとみ)を擁して南紀派を形成する井伊直弼に対して、息子である一橋慶喜を擁して一橋派を形成して直弼と争った。

しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印してしまい、さらに将軍職も慶福(よしとみ)(家茂)を第14将軍としてしまったのである。

このため安政6年(1859年)に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主松平慶永(よしなが)尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で、井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から永蟄居を命じられた。

 いよいよ安政の大獄が始まります。

 


【4月16日(水)】    佐久間象山
【4月16日(水)】    佐久間象山(しょうざん)

 は1851年(嘉永4年)春初めて江戸に出てきてすぐに、当代一流の学者である安積良斎(あさかごんさい)山鹿素水(やまがそすい)古賀謹一郎佐久間象山などに学ぶが、「ぼく江戸に来て3ヶ月になるが、未だに師といえる人に出会えない。思うに江戸には師とすべき人がいないのである。」と語っている。
しかし佐久間象山に関しては、その後叔父の玉木文之進に「佐久象山という人、豪傑で卓見の人です。」と手紙を書いている。

 さてその佐久間象山は信洲松代(まつしろ)の生まれで、幼少のころから人間離れした記憶力をもっており「奇才」といわれていた。
小さいころから数学を始め、漢学、現代中国語、卜伝流(ぼくでんりゅう)剣術、馬術また儒学を佐藤一斎(いっさい)に学んだ。
 象山が佐藤一斎の門をたたいたのは1833年(天保4年)、山田方谷(ほうこく)が入門したのは1834年のことでした。
その後象山書院」という学問の町道場北辰(ほくしん)一刀流の千葉周作の道場と同じ神田お玉が池に開いた。
千葉周作の元には当時3000人からの門弟が集まっていたそうです。

 この当時象山はまだ30歳まえでしたが、そのころ出版された「江戸名家一覧」に早くも彼の名前が出ています。
さらに藩命で近代砲術の研究を命ぜられ、江川太郎左衛門(たろうざえもん)に学んだ(31歳)。
しかしこの師に飽き足らず、オランダ語を蘭方医・坪井信道(しんどう)らに学び、砲術のみでなく西洋式の科学者への道を進んでいく。
西洋式合理主義を自分の生活に取り入れるためを飼って豚肉を食い、牛肉も食ったようです。
大砲製造法
も独学で学び、それを試みる一方、射撃術、西洋陸軍の教練法も講義しています。
江川のもとを去ってから8年後には江川をはるかに越える大家になっていました。

 松陰(21歳)が弟子入りしたのはこうした象山(40歳)の脂の乗り切った1851年の晩春であった。
しかし最初のころは、忙しくてあまり熱心には象山の下には通っていません。
しかもこの年の暮れには脱藩(だっぱん)をしてまで肥後藩士、宮部鼎蔵(ていぞう)と、浪人安芸五蔵の3人で東北の旅に出る。
水戸で会沢正志斎(あいざわ せいしさい)に教えを乞い、その後会津、新潟、佐渡、秋田、弘前(ひろさき)、青森、盛岡、仙台、米沢、日光と4ヶ月をかけて踏破(とうは)した。
江戸へ帰った松陰は藩邸に戻ったが、お(とが)めを受け萩に送り返されてしまう。(1852年4月)
 余談ですが勝海舟の妹お順(17歳)が象山(42歳)の元へ嫁いだのがこの年12月。仲人は島田虎之助の予定であったが、この秋脚気で亡くなっていた。

 松陰が佐久間象山に再び教えを請うのは、脱藩の罪を許され再び江戸に戻って来てからのことです。(1853年5月24日)
6月3日まさにペリーが浦賀にやってきたその日、象山の元を訪れた。
このときは二人はまだペリーのことは知らなかったが、この日を境に松陰の運命は大きく変わっていきます。
 篤姫(あつめ)が薩摩を出発するのはこの年の8月21日のことです。
このころ長崎にはプチャーチン率いるロシア艦隊が入港しており、それに乗り込もうと松陰が長崎に向けて江戸を立つのは9月の中ごろのことです。どこかで篤姫と松陰はすれ違っているはずです。

【4月14日(月)】   横浜
【4月14日(月)】   横浜

 昨日私用で横浜へ行ってきました。
横浜はペリーが来航した浦賀と東京の中間辺りにあり、その当時はまだ単なる(さび)れた漁村に過ぎなかったようです。
その後、幕府がペリー提督との日米和親条約の締結の場所として戸数101戸の横浜村・洲干島(しゅうかんじま)を選び、神奈川宿の新開地、横浜として急ピッチで開発されることになります。
神奈川宿の開港を迫ったペリーに対して、東海道の宿場町としての神奈川宿はなんとしても避けたく、横浜村の洲干島(しゅうかんじま)を埋め立てて新開地を造り長崎の出島のような湊にするつもりだったようです。
 横浜村にとってペリー来航は町の発展のため大歓迎だったのでしょうか。

 吉田松陰1953年6月3日ぺリーが来航したとき、江戸からこの横浜までりそこから浦賀の手前の大津まで船に乗り、ペリー艦隊を見に行きました。(6月4日) この話はまた後日。
 

【4月15日(火)】  吉田松陰
【4月15日(火)】     吉田松陰

 『かくすればかくなるものと知りながら
           やむにやまれぬ大和魂(やまとだましい)


  新渡戸稲造(にとべ いなぞう)が著書「武士道」の中で、「近代日本のもっとも輝かしい先駆者の一人である
吉田松陰
が刑死前夜にしたためた歌」として世界に紹介した歌です。
 
 実際は海外渡航に失敗した松陰が、捕らえられ下田から江戸の伝馬町(てんまちょう)に送られる途中、赤穂浪士で有名な泉学寺(せんがくじ)前をったとき、同じ国禁(こっきん)を犯したものとして,浪士と自分を思い比べながら作った歌のようです。    
                   関 厚夫 著   「ひとすじの蛍火(ほたるび)」  より
 
   【参考】 松陰は4歳のとき叔父の長州藩山鹿流兵学師範・吉田大助の養子となる。
    山鹿流兵学の祖・山鹿素行(やまがそこう)は当時の官学である朱子学の批判をしたため、
    流罪に処せられ播州赤穂の浅野家の預かりとなる。
    そのとき大石内蔵助の親戚の屋敷に身を寄せ、かれにも大きな影響を与えたようです。
    松陰と赤穂浪士との間にはこうした因縁があったので泉岳寺での歌になったようです。。
     
 しかし松陰というのはすごい男です。「海外渡航」という国禁を犯せば、自分の身のみでなく、周りの多くの人も迷惑がかかるのに、敢えて国家の危難を救うという自分の理想のため、国禁を犯すという行動に走ります。
 
しかも最初はプチャーチンにいられて長崎に入港していたロシア艦隊の船に乗ろうと、はるばる江戸から単身長崎に向かいます。
しかし残念なことにすでに出航した後で、そのま江戸に引き返して、今度は翌年(1854年)和親条約の締結に来たぺりーの船に狙いをつけやっと実行に移すわけです。
 この事件はなんと当時のフランスの新聞でも報道されていたようです。
「やむにやまれぬ大和魂」。
命を懸けての執念
、何ともすごいものです。

 いまの一見平和な日本では、こうした感覚は理解しがたいかもしれませんが、
「いざ」という時のため頭のどこかに残しておき、うろたえないよう身を処したいものです。

【4月12日(土)】   井伊直弼
【4月12日(土)】  井伊の赤鬼・ 井伊直弼(いい なおすけ)

 いよいよ幕末の主人公の一人井伊直弼(なおすけ)が登場です。
勉強不足の私にとって徳川慶喜(よしのぶ)と同様、未だに価値判断の確定しない
人物の一人です。

 井伊直弼(なおすけ)は、文化12年(1815年)10月29日、第13代藩主・井伊直中(なおなか)の十四男として近江国彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれる。

庶子(しょし)であったため、養子の口も無く、17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持(すてぶち)の部屋住みとして過ごした。

この間、長野主膳義言(よしとき)と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない()もれ木にたとえ、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨(よすて)て人のように暮らした。

この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。

その他にも和歌槍術居合術を学ぶなど、世捨て人とは思えない自己研鑽(けんさん)振りです。


 ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄直亮(なおあき)世子(せいし)であった井伊直元(なおもと)(直中十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。

しかしこの兄にこれから5年間に渡って筆舌(ひつぜつ)に絶するいじめを受けたようです。

ところが嘉永3年(1850年)、直亮(なおあき)が突然死去し、ついに家督を継いで第15代藩主となる。

この時代は、若くして病気で沢山な人が亡くなっています。


 彦根藩時代は藩政改革を行い、名君と呼ばれたといわれる。

「篤姫」が江戸に出てきた嘉永6年(1853年アメリカ合衆国ペリー艦隊来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問(しもん)してきたときには、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国論を主張している。

ただし、直弼の開国論を「政治的方便」とする説、江戸幕府が国政の実権を取り戻した後は、攘夷を断行するという攘夷論者であったという説もある。

 

 このころ幕政は、嘉永から安政年間にわたって老中首座の阿部正弘によってリードされていた。

阿部は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。

斉昭はたびたび攘夷を強く唱えた。しかしこれは、溜間(たまりのま)(江戸城で名門譜代大名が詰める席)の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。

井伊直弼ら間詰(たまりのまずめ)諸侯と、阿部正弘・徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。(1854年1月28日)

 

  このため斉昭は阿部に迫り、老中の松平乗全(のりやす)、松平忠固(ただかた)の2名の更迭を要求る。

安政2年(1855)8月4日、阿部はやむなく老中から両名を退けた。

乗全(のりやす)忠固(ただかた)はともに開国・通商派であり、また乗全と直弼は個人的に書簡をやり取りするほど親しかった。

直弼は猛烈に抗議し、溜間(たまりのま)の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。

阿部はこれまたやむなく溜間の堀田正睦(まさよし)(開国派、下総佐倉藩主)老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全(のりやす)忠固(ただかた)罷免(ひめん)に対して、直弼を筆頭とする溜間詰諸侯が一矢報いた形といえる。

 

 直弼は「維新の志士を大勢殺した大悪人」という評価もある一方で「開国を断行して日本を救った政治家」という評価もある。

彼のような人物が現れて開国を行なわなければ、日本の歴史は大きく変わっていたといえる。

その意味で井伊直弼は幕末政治を語る際には欠かすことのできないひとりである。

さてあなたは井伊直弼をどう評価しますか。これからの展開を見ながらゆっくり考えてみてください。







【4月11日(金)】     『タイムプレッシャー』
【4月11日(金)】     『タイムプレッシャー』

 昨日「脳のメカニズム」を勉強しました。できるかどうか分からないことに、
  自分から進んで、一生懸命取り組んでいくと、脳は強化され

ことを学びました。
つまり脳にある程度負荷(ふか)をかけることによって、脳は鍛えられるわけです。

  『しかし、僕が見るところ、勉強ができない人は、負荷のかけ方を知らないというケースが多いように感じられます。
脳は常に「苦しい刺激」を求めていますから、より苦しい刺激、さらに苦しい刺激というように
どんどんハードルを高くしていく。
ハードルが高ければ高いほど、それを乗り越えられたときの喜びも大きくなるわけです。

 このメカニズムを知っていれば、自分から進んで強い負荷を求めるようになります
困難を乗り越えているうちに、気がついたら新しいスキルを身につけていた。
この「成功体験」を積み重ねていると、強い負荷にも耐えようという意欲が生まれるのです。

 しかし、自分の脳に負荷をかけるのはなかなか大変です。
     
そこで、おすすめなのが、「タイムプレッシャー」です。
           簡単に言えば自分の作業に、制限時間を設けるのです。

 勉強が苦手な人の特徴に、
      解けない問題をだらだらと考え続けてしまうというものがあります


僕は、時間内に解けない問題があったら一度あきらめます
    そのかわり、取り組んでいる間は、ものすごく集中した状態で考えました。

 こういった「タイムプレッシャー」のもとで人から強制されずに勉強を続けているうちに、
勉強する回路が強化されていきます。
 これを何度も繰り返すことによって人間の能力は、どんどん上がっていきます。

              茂木(もぎ) 健一郎 著  「を活かす勉強法」 より

 いずれにしても、「何度も繰り返す」ことが必要です。「継続は力なり.」です。


【4月10日(木)】     『脳のメカニズム』
【4月10日(木)】     『脳のメカニズム』

 数学の苦手な人に朗報。
得手(えて)不得手(ふえて)を考える時、私たちは、もともとの才能の有無(うむ)のせいに
しがちですが、生まれつき数学が得意な脳、苦手な脳というものはない。」

のだそうです。
 それではなぜ現実に「できる人」と、「できない人」が存在しているのでしょうか。

 「それはドーパミン分泌(ぶんぴつ)されてないからです。だから、やっても楽しくない。楽しくないので、
うまくいく方法をポジティブに考えられない。
そのためどんなに頑張っても結果がついてこないため、苦手意識が芽生えるようになる。
そして、苦手意識が生まれたときに、本当に不得意な分野になってしまう。」という悪循環に陥るからだといわれます。
  
 ではその「ドーパミン」とやらはどうしたら出てくるのでしょうか。
数学ではよくあることですが、一生懸命考えていた問題がやっと解けたとき、「やった!できた!」
   と思わず飛び上がるほどうれしいことがあります。
       このとき「ドーパミン」が大量に分泌されています
「ドーパミン」は神経伝達物質のひとつで、「快感」を生み出す脳内物質だそうです。

ありがたいことに人間の脳はドーパミンが分泌されたとき、どんな行動をとったか克明に記憶し、
ことあるごとにその快感を再現しようとします
そして、最も効率的にドーパミンを分泌させるため、つまり快感を得るために脳内では神経細胞
(ニューロン)
がつなぎかわり、新しいシナプス(神経回路網)が生まれます。
そのため、快楽を生み出す行動が次第に「くせ」になり、2回、3回と繰り返していくたびに、
   その行動が上達していく。これが「学習」のメカニズムです。
特に、  試行錯誤を経ることで脳内に強固なシナプスが形成され、
 やがてひとつの行動に練達していきます。
これを「強化学習」といいます。

 最初は小さかった雪玉が、転がるうちにどんどん大きくなる。それと同じように、特に手を加えることなしに、脳が強化されていくのです。
          人間は、自分をどんどん高めていくことができる生き物です
   それは決して苦しいだけのことではなく、むしろ、たとえようもなくうれしいことのはずです

ただ脳が喜びを感じるためには「強制されたものではない」事が大事です。
何をするにしても「自分が選んでいる」という感覚こそが、強化学習に欠かせません。
      もともと人間のモチベーション(やるき)というのは、
その人の好きなことや、人からほめられた経験、人から認められるといった
      ポジティブなものからしか絶対に生まれません。


 ところで注意することは、「できることを続けても脳は喜ばない」ということです。
「ドーパミン」は できるとわかっていることを成し遂げても放出されません。
   できるかどうか分からないことに、一生懸命ぶつかり、
      そして苦労の末それを達成したときに大量に分泌されます。

苦しければ苦しいほど、その後の喜びは大きく、より「脳」は強化される。
           これが「脳のメカニズム」です。

                      茂木 健一郎 著   『を活かす勉強法』 より

 やはり、 『(らく)は苦の種、苦は楽の種』です。(たな)から牡丹餅(ぼたもち)というわけにはいきませんが、「脳のメカニズム」が分かれば「苦しい」ということは「脳が鍛えられている」と分かり、
安心してその苦しさに耐えられると思います。 頑張って耐えていきましょう。

【4月9日(水)】   「学問の仕方」
【4月9日(水)】   「学問の仕方」

 我々の学問の仕方、読書の仕方には色々ありますが、一番悪いのは散漫(さんまん)ということであります
散漫な読書、散漫な学問というものはいくらやっても何もならん。
       学問ばかりではない何でもそうですね

我々のたとえば栄養というようなことでも、無暗(むやみ)やたらに、胃腸の働きを無視して、うまいものを食ったって栄養にならんのです。
雑食したり、過食したりすると、かえって胃酸過多(いさんかた)になったり、胃潰瘍(いかいよう)になったりするので、       
   
大事なことは腹を減らすということであり、消化するということである。
  たいていの人間が食わんで病気はしません。たいてい食いすぎて病気をする

 と同じように人間の思想だとか理論だとか学問だとか言うものも、消化吸収ということが一番大切で、雑駁(ざっぱく)に詰め込むと、脳酸過多(のうさんかた)脳潰瘍(のうかいよう)になる。精神分裂ということになって破滅する。
      近代の学校、学問の一番悪いところはこの雑駁(ざっぱく)ということにあるのです。

 朝8時から9時まで英語、9時から10時まで歴史、10時から11時まで数学、
       11時から12時まで物理なんていうように、入れ替わり立ち代り先生が替わって、
薄っぺらなことをいい加減につぎ込まれたりして
、6、3、3、4なんて16年もぶらぶらしとったら、
       
 よほど英邁(えいまい)な生まれつきでも馬鹿になることは明瞭である

私なども典型的な学歴を終わってつくづくと自覚することであります。
     学問の大事なことは同じでありまして、徹底して学問をこなすことであります
  何か一つの学問を本当にこなしたときに
               なんにでも通ずるものであります。

                                 安岡 正篤(まさひろ) 著  「人間学のすすめ」

 厳しい学校批判が飛び出しました。小、中、高、大学までいって馬鹿になったのではどうしようもありません。
今の学校制度の中で、どうしたら自分を生かしていけるか、それぞれ自分に合った方法を考えてみる必要があるでしょう。 「どぎゃんかせんといけません」。
 

【4月8日(火)】     「怖いものは逃げずに食え」
【4月8日(火)】     「怖いものは逃げずに食え」

 先日(3月28日)バレリーナーの吉田都さんの体験から、人間は弱いから、不安迷いがあるときについつい逃げ出したくなるが、目の前の課題そのものに逃げ込んだら良いということを教えられましたが、今日も似た話を紹介します。

 「怖いものから逃げていたら、いつまでも追いかけてくる。
わしが(へび)を怖がりよったら、丸焼きのマムシを兄貴に
無理やり食わされた。 気色(きしょく)が悪うて()きそうになったけど、
兄貴は許してくれん。 (はら)をくくって丸ごと食べた。
   
不思議なことに、食べ終えたあとは
                マムシを見ても怖くなくなった。

           
 山本 一力 著  「ほうき星」より   (産経新聞掲載中)

 すさまじい荒療治(あらりょうじ)です。まさに虎穴(こけつ)()らずんば、虎子(こじ)をえず」です。
 このお話は江戸時代末期、ちょうど「篤姫」が江戸についてしばらくして安政の大地震が起きますが、そのころの土佐の漁師のお話です。こういった荒療治(あらりょうじ)は最近少なくなりましたが、あまり難しく考えずに小さいころからやっておれば結構たくましい子が育つのではないかと思うのですが。

 先日(3月29日)紹介しましたが、世界各国を回ってボランティア活動を続けておられる曽野綾子(そのあやこ)氏は、意図的に食事の前に手を洗わないそうです。
それは途上国の僻地(へきち)にも良く出かけるので、
 日ごろから不潔を気にしない心理におき、神経症にならないようにしているからだそうです。  やはり日ごろの心がけが大切ですね。

人間国宝竹本住(たけもとすみ)大夫(たゆう)さん文楽(ぶんらく)太夫(たゆう))の77のころのお話を紹介します。    

                 《大阪の小学校でのお話です。》

私はいまだに稽古(けいこ)をしています(当時77歳)

 何でも予習復習が肝心(かんじん)です。()きでやっている芸でも、

      好きな役ばかりでなく(いや)な役が回ってくることがあります。

 (いや)(いや)やと思っていたらお客様に申し訳なから、

   (いや)なもんほど余計(よけい)稽古(けいこ)する。 すると

  (いや)だんだん薄らいできて好きになるのです。  

あなた方も勉強が(いや)思うてたら、いつまでたっても

嫌なままやから 好きになるように自分で努力してください。<


【4月7日(月)】   「孫の入学式で」
 
【4月7日(月)】 
    「孫の入学式で」

 『花吹雪(はなふぶき)(ほお)ずりすれば  心は()きたての 
              
             銀めしのように  ふっくらとしている

 この一年  昼も夜も  よく頑張ったな  

      
 じいちゃん受かったよ  と電話口で聞いたとき

           
 涙が(こぼ)れそうになった

 いつか港を出るだろう  波立つ海に海図(かいず)はない 

          
お前の航路は お前が探していくのだ
 
             
           横浜市 緑区  佐々木 直   (4月7日 産経新聞 より)


 毎年 多くの受験生から 合格発表の日に「先生、受かったよ」(はず)んだ声で電話をもらいます。
   こちらはなぜか胸が詰まって、うれしいはずなのに涙が出そうになってしまいます。
     来年も期待しています  「この一年、昼も夜も 頑張っていきましょう。」

【4月6日(日)】     肝付尚五郎(きもつき なおごう)
【4月6日(日)】     肝付尚五郎(きもつき なおごろう)

 運命のいたずらか篤姫(あつひめ)は、将軍御台所(みだいどころ)候補という、
はるかに手の届かぬ人になってしまいました。

せめて江戸についていきたいという願いもたたれ、悲嘆にくれる尚五郎(なおごろう)です。
念願の江戸出府は1855年のことで奥小姓として斉彬(なりあきら)の側近くで仕えたようです。21歳のときです。

 ところでこの尚五郎なかなか優秀な男だったようです。
身体は必ずしも頑強ではなかったようですが、幼少のときより学問を好み
起きているときは、ほぼ勉学に励むという日々であったようです。
テレビでも出ていますが、学問の師匠は小松清猷(きよもと)で彼の妹千賀と(ちか)22歳で結婚します。
24歳のときには、尚五郎改め
小松帯刀(こまつ たてわき)として家督を継ぎます。
この年斉彬(なりあきら)は急死します。
 
 斉彬亡き後、
島津久光に才能を見出されてその側近となり、
大久保利通
とともに藩政の改革に取り組みます。
1862年(文久2年)には久光による上洛に随行し、その帰国後家老職に就任します。とんとん拍子の出世です。
 その後、京都における活動が主体で同い年坂本竜馬昵懇(じっこん)になり、
海援隊(かいえんたい)の設立を援助したり、竜馬の妻「お龍」との仲を取り持ったり、薩長同盟にも力を貸しています。
桂小五郎が滞在したのも京都の小松帯刀(たてわき)の屋敷です。
 
 薩摩も必ずしも一枚岩ではなく、佐幕派と勤皇派の間にあって、
勤皇派から佐幕派に対抗できる名門の出身者として期待を集め、勤皇派、そしてやがて討幕派へと流れていく薩摩藩の
藩論を推進していく中心人物として日本史に登場してくることになります。

 テレビでの今後の扱い方に注目して見ていきましょう。

                             【参考】
 幕末維新期に、辣腕(らつわん)の英国外交官として活躍したアーネスト・サトウは小松に会ってこんな
短評を残している。

   「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、
          家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、
政治的な才能があり、態度にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた
    顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌をそこなっていた」
                                   (一外交官の見た明治維新 ~岩波文庫~)

「4月5日(土)】    「東夷」
「4月5日(土)】    東夷(とうい)

 「東夷(とうい)」というのは、東のほうの野蛮人という意味ではなく、『書経』の中に、億兆夷人(おくちょう いじん)という、
地位や身分のない、地位や官位のない、多くの一般民衆という意味で使われているそうです。

 犬養 毅(木堂)(いぬかいつよし ぼくどう)も次のように説明しています。
中国人は周辺の異民族「東夷」、「西戎(せいじゅう)」、「南蛮」、「北狄(ほくてき)と反感を持って言っいた。
「蛮」には虫がついている(てき)にはけもの扁がついている
                ところが「東夷」と「西戎」だけは何もついていない。
        (じゅう)と言うのは武器を持っているということである
これは今日で言うとトルコ人、チット人のことで、そのうち「夷」という字が一番立派な字です。
 「夷」という字は弓を持って人間が立ちはだかっているという文字、弓は武器の代表であります
     東方の人間は非常に武勇である、偉大なる武勇の人間という意味である。 
                               安岡 正篤 著 「人間学のすすめ」 より

 聖徳太子の時代に、蘇我馬子(そが うまこ)の子で「蝦夷(えみし)」という権力者がいました。
蝦夷は蝦夷と同じ漢字であるため、これは蔑称であり、毛人が本名との説があるが、
     「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指すことを考慮していない。
「えみし」という名称は小野毛人佐伯今毛人も使用しており、わざと悪いものを
      自分の名前につけることで 逆に厄払いにしたという説や、当時蝦夷は
頑強に大和朝廷に抵抗しており、「強い人間」という印象があるため名前につけたとする説もある。
また蘇我入鹿(いるか)と同様に死後中大兄皇子(なかの おおえのおうじ)らによってこれまでの名前を資料とともに消され、
新たに卑しい名前として勝手に名付けられたという説もあり、 「蘇我蝦夷(そが えみし)という名前が
昔からなんとなくしっくり来ませんでしたがこの説明で少しは納得した感じがします。

【4月4日】     言志四録(げんし しろく)    佐藤一斎
【4月4日(金)】     佐藤一斎(いっさい)    「 言志四録(げんし しろく)   より

『 (わか)くして学べば
     (すなわち)(そう)にして()すこと有り
   壮にして学べば  即ち老いて(おとろ)えず
 老いて学べば   即ち死して()ちず 


 小泉純一郎氏が首相のとき、教育改革関連三法案の審議が行われた衆議院本会議で、
幕末の儒学者佐藤一斎のこの言葉を紹介して教育観を披露し、生涯学習の重要性を強調されました。

 要するに人生は一生勉強しなさいということのようです。
だからこそ先日の茂木健一郎氏の話ではありませんが、人生を楽しむためにも勉強を楽しくやっていく必要があるでしょう
佐藤一斎の孫弟子にあたる吉田松陰は1850年(嘉永3年)21歳のとき江戸に留学させてもらいますが、実に楽しく勉強を続けたようです。

 「松陰には、あかごのような無邪気さがあるらしい。江戸の留学生活が、よくてたまらないようであった。
   “何がうれしいのか、寅次郎(松陰)はいつも喜びを待つがごとくそわそわしている。” と、
学友がからかったように、まったくのところ、毎朝桜田の御門を出るときなど、江戸の天の下でおどりあがりたい気持ちである
 師匠はみな天下一流の学才であり、きょう塾へゆけばどういう奇跡が待っているか、というふうな期待がある。」といった風だったようです。
 留学のとき一緒に生活していた井上壮太郎
「いつみても心を弾ませ、胸中どういう愉快なことがあるのか、不平というものがまったくない。
     ちょうど家に新婦を迎えようとしてそわそわしている新郎のような男だ。」 
 と語っています。
                       司馬遼太郎 著  「世に()日日(ひび)」 より

 「ここまで喜べるか」というぐらいの喜びようですね。なんとか、あやかりたいものです。

 ちなみに、このころの松陰の先生は、当時江戸一といわれた儒者安積良斎(あさかごんさい)
江戸学壇の三巨峰の一つといわれた古賀謹一郎山鹿流兵学の師山鹿素水(やまがそすい)などで、
藩邸からそれぞれの塾までおよそ一里(4km)ぐらいあり、その間を走り回っていたようです。

 【4月3日】    『 道  』      松下 幸之助
【4月3日(木)】   『道』     松下幸之助

 自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。
            どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない
自分だけしか歩めない二度と歩めぬかけがいのないこの道。
       広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。
坦々(たんたん)とした時もあれば、かきわけかきわけ汗する時もある。

 この道が果たしてよいのか悪いのか、思案(しあん)にあまる時もあろう。
なぐさめを求めたくなる時もあろう。
       しかし、所詮(しょせん)この道しかないのではないか。
 あきらめろと言うのではない。
いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである
自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
        
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

 他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
  道をひらくためには、まず歩まねばならない。
                    心を定め、懸命に歩まねばならない。 
  それがたとえ遠い道のように思えても
 休まず歩む姿からは必ず
新たな道が開けてくる。
深い喜びも生まれてくる

                            北 康利 著  「同行 二人(どうぎょうににん)」 より

  今自分は大いに反省しています。
       「かけがいのない自分の道」そうと意識して大切に歩いてきただろうか
あまりそんな事を考えずにただ「だらだら」と歩いてきたけなのではないか。
   まだまだこれから道は続きます。
「心を定め、懸命に、休まず」に自分だけに与えられた「天与の尊い道」を歩いていきます。

          “Late , but  never  too  late "     (いまからでも遅くはないぞ。)

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