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悠学舎・児童館スクールの塾生への応援メッセージです

【4月2日(水)】   「脳」を活(い)かす「勉強法」
【4月2日(水)】   「脳」を()かす「勉強法」
 『僕自身は、ほとんど親から「勉強しなさい
」と言われたことがありません。
自分から進んで勉強していました。それは勉強が面白くてたまらなかったからです
勉強をしていると自分の中の中の何かがとても喜ぶのです
それは一種の快感といってもいいぐらい、勉強を続けるほどに楽しくなるのです
やがて「勉強するとうれしい」「うれしいから勉強する」というサイクルを延々と繰り返すようになったわけです。
 
 だから僕は、深い喜びを感じるために、様々な方法を子供なりに工夫していきました
その積み重ねをしていたら、いつしか「とても勉強できる」子供になっていたというわけです。
人間の脳のすばらしいところは
   新しく学ぶことに深い喜びを感じるように設計されていることです。』
                      茂木 健一郎 著  ()かす勉強法』  より

 実に素直な勉強に対する感想です。全くその通りです。
私も時々教室で、自分の体験から「勉強は面白いだろう」と呼びかけますが、「そんなことないよ」という冷たい反応腰砕(こしくだ)けになり、いま一歩説得力がありませんでした。
これで強い味方ができました。これからは自信をって「勉強は面白いぞ」と諸君が感じるようになるまで言い続けるつもりですから、覚悟しておいてください。

 茂木 健一郎氏さすがに脳科学者です。
「人間の脳の中は、『ある行動をとった後、脳の中で“報酬”を表す物質が放出されると強化する」という性質を持っているのです。
つまり、報酬を得て喜びを実感できた行動を再現し、繰り返したくなる。結果、その行動に熟練していくというわけです。その鍵を握っているのは「ドーパミン」という物質です。
 ここで言報酬とは何かを成し遂げることによる達成感や、他者からほめられること
        自分の知識欲を満足させること等を指します。」   と語っておられます。

* 「ドーパミン」については後日詳しく触れます。
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「すごいぞ日本」  魔法の砲丸
【4月1日(火)】  「すごいぞ日本」 魔法の砲丸

 昨日「知識」「技術」などは「人間の付属的要素」で、なくても人間たることに差し支えないものという安岡正篤(まさひろ)氏の言葉を紹介しましたが、今日はその技術の分野で超一流の人を紹介します。(31日産経新聞より)

  1996年のアトランタから2004年のアテネまで3大会連続で、金、銀、銅メダルを独占してきた種目があります。選手ではありませんが、メダルを獲得した選手の砲丸です。
なんとこれが、ことごとく日本の小さな町工場で作られています。 (埼玉県富士見市)
世のトップ選手が「1~2メートルは記録が伸びる」と評価しているこの砲丸を作っているのは、今年75歳になられる辻谷政久さんです。
秘訣を聞きますと「ローテク」だからと答えています。
外国メーカーはコンピューター制御のNC旋盤という機械を使い、辻谷さんはハンドルで前後左右に刃を移動させながら削る、汎用旋盤(はんようせんばん)だそうです。
比重のムラを見極め、調節しながら重心を真ん中に持っていく、「ローテク」ならではの世界だそうです。
          技術立国日本の面目躍如たるものあります。

 佐藤一斎(いっさい)に 『一芸の士は みな語るべし』という言葉があります。
すなわち一芸に達した人物は、人間も優れていて面白く傾聴(けいちょう)するに足るという意味です
 私もこの意見には大賛成です。先日の星野仙一、大リーグで活躍している「イチロー」、
「松井秀樹」
みんな一芸に秀でて、人間的にもすばらしいオーラを発していると思います。
  どの道を上ろうと努力して頂上を目指すものは、必ず「高み」に到達きる感じがします。

 佐藤一斎(いっさい)は11793年昌平坂学問所に入門する。に入門する。
1805年には塾長に昇進し、その後は儒学の大成者として幕府から認められ、儒学者の最高権威として崇められた。幕府の儒官だったため、朱子学が専門であるがその広い見識は陽明学まで及び、仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王(ようしゅいんおう)』と呼ばれた

 佐藤一斎には、佐久間象山、渡辺崋山、横井小南等のそうそうたる弟子がいます。
佐藤一斎・・・・・佐久間象山・・・・・吉田松陰・・・・・高杉晋作、日本を大きく動かした幕末思想の一つの流れがあります。
 
 余談になりますが、この辻谷さん北京五輪用の砲丸は作らないそうです
2004年8月のサッカーアジアカップで、現地サポーターが見せた日本に対する憎悪が気になったそうです。「砲丸は私の分身です。大事に使ってくれる選手には
          申し訳ないが、職人としての意地があります。」

「意地があります」。いいことばです。最近ではあまり聞かれなくなった言葉で、
             日本男児ここにありと思わず快哉(かいさい)を叫びたい感じです


 それに引き換え最近ではチベットでの人権問題も噴出しているにもかかわらず、「進歩的文化人」とか「人権政治家」の皆さんの声が耳を澄ませど聞こえないのはどうしたことでしょうか。
「国境なき記者団」五輪開会式のボイコットを呼びかけていますが、欧州ではすでにドイツ、
ポーランド、チェコ、エストニヤ、スロバキア
などが開会式欠席を表明しています。
日本政府も、進歩的文化人の方も何らかの声を上げてみてはいかがでしょうか。
 特に大江健三郎氏にお願いしたい。過去の日本の軍部の告発をするのも結構ですが、
今こそ「進歩的文化人」といわれる人々を結集して、一人でもかまいません、
   中国政府に弾圧されているチベット人のために何らかの声を上げてほしいものです

世界の奇跡・明治維新
【3月30日(日)】   「世界の奇跡」 明治維新
 

 
 「篤姫(あつひめ)は、2ヶ月を越える長旅の末やっと江戸に着いたが、将軍御台所(みだいどころ)への道は、なかなかすんなりとはいきそうもない雰囲気であった。
楽しみにしていた母・英姫(ひでひめ)との対面も予想とは違て大きく篤姫の期待を裏切るものであった。

 斉彬の室。英姫(ひでひめ)十一代将軍、家斉(いえなり)の第十四子で、一橋斉敦(なりあつ)の第一女として入與(にゅうよ)していた。
宮尾登美子の原作では、ここまでひどい応対ではなかったようですが、「天然痘」で見るも無残な顔だったため御簾(みす)でさえぎられてのご対面であったようです。
「篤姫」の苦難はこの日を持っていよいよ本格的になっていくわけですが、日本自体もいよいよ大きな曲がり角に突入していきます。

 それにしても、徳川幕府が約300年にわたる長い期間、国家の統一を保って、戦争もなく、
たいした内乱・革命もなく、平和と文化を維持し発展させてきたという事実
世界の歴史にも珍しい「偉大な事跡」であります。

 悪く言う人は「日本が島国だから平和が楽しめたのだ」と切り捨てますが、「孟子」も言うように「敵国外患(がいかん)なければその国(ほろ)ぶ」という一面もあるわけで、素直に平和を愛する日本人の英知を認めて、今後に生かしていく努力をする必要があろうと思います。 
 
 しかも、列強の植民地獲得競争が吹き荒れる中で、これから「革命」ともいえる幕府崩壊が始まるわけですが、多少の流血はありましたが、植民地にされることもなく、世界各地の革命に比べていかに人的被害が少なく、有機的・道徳的・人間的な権威・価値のある政権交代がおこなわれたか、まさに「世界の奇跡」だといってよいのではないでしょうか。
 当時の若者たちが、何を考え、それをどう行動に移していったか、じっくり検証してみましょう。



 「人間としての本質的要素」
【331日(月)】   「人間としての本質的要素」

 最近「誰でも良かった」といっては人に切りつけたり、ホームから人を突き落とすなど信じられないことが多発していますが、なぜこんな悲惨なことが次々と起こっているのでしょうか。
先日(3月22日)、幼少のとき身につけるべき礼儀や教養としての「小学」の話をしましたが、小さいころの家庭でのしつけがきっちりできていなかったのではないかという気がします。
 「突き落とし事件」の少年の父親が「私が子供にかかわりすぎたことが原因かも」と話しておられますが、かかわる時期と、その方法が問題だったのではないでしょうか。

 そのため安岡正篤(まさひろ)の言われる「人間としての本質的要素」が育てられてなかったのではないかという感じがしてなりません。
 安岡正篤(まさひろ)は『人間というものの内容を分けると、人間には二つの内容がある。
一つは本質というべきもの本質的要素
        これがあることによって人間であり、これを失えば人間でなくなるもの

たとえば、人が人を愛するとか、人に尽くすとか、人に報いるとか、あるいは清いとか、
あるいはまじめである、質実であるとかいったとか、というものである。

 それに対して、あればあるほどいいけれど、なくても別段差し支えないという付属的要素。たとえば、知識とか、技術とかいうもの。
        なくても人間たることに差し支えないもの
。』と語っておられます。

 「徳」のある代表的人物の一人として、西郷隆盛を上げておられます。
島津斉彬(なりあきら)候が松平慶永(よしなが)候に「私のところには、ちょっと各藩を見渡しても得がたい人物がいる。
軽輩で、特別に非凡な知識や技芸を持っておるわけでもなく、頭は私のほうがいいくらいだが、
この人物はそういう区々たる知識や才幹ではなくて実に偉大な仁者である
。」と述られたそうです。
斉彬自身も「天下の四賢候(よんけんこう)といわれるすばらしい人であったようですが、
    西郷人間の本質であるところの徳性というものを豊かに備えていた人」だったようです。
                             安岡正篤 著  『人間学のすすめ』 より

 「篤姫(あつひめ)が江戸に向かって旅立った後を追うように、西郷も斉彬に従って江戸へ向かいます。
これから本格的に西郷の「付属的要素」各地の俊英と交わりを結んでいく中で磨かれていきます。
 西郷の域まで達するのは並大抵ではありませんが、少なくとも人に危害を加えるような馬鹿な人間にはなりたくないものです。
今からでも決して遅くはありません。“Late, but  never  too  late." を頭において、
         「人間としての本質的要素」を育てていきましょう。
 
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【3月29日(土)】    桜

 春ですね。いよいよの季節です。

「 ひさかたの 光のどけき 春の日に 
           静心(しずごころ)なく 花の散るらむ 」
   紀 友則

「 ねがわくは 花の下にて 春死なん 
           その如月(きさらぎ)の 望月(もちずき)のころ 」 
 西行法師

      *  願いどうり西行は陰暦2月16日桜の花の咲くころ、73歳で亡くなっています。
  •   高杉晋作『西へ行く 人を慕うて 東行く 
  •          我が心をば 神や知るらむ』  と歌い、東行と号した。
  •    ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。
  •    一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の
  •      江戸幕府討伐を目指した。

「 敷島(しきしま)の 大和心(やまとごころ)を 人問(ひとと)はば
               朝日に匂う 山桜花(やまざくらばな) 」 
  本居 宣長(もとおり のりなが)

「 風さそふ 花よりもなほ 我はまた 
        春の名残(なごり)を いかにとやせん 」 
 浅野 (ながのり) (内匠頭(たくみのかみ)

  *「無念」の気持ちを胸に、桜ほろ散る庭を横目に切腹の場に臨む内匠頭(たくみのかみ)の姿が
     目に浮かびます。

「 散る桜 残る桜も 散る桜 」      良寛

「 明日ありと 思う心のあだ(ざくら) 
            夜半(よわ)(あらし)の 吹かぬものかは 」 
   親鸞

  この詩は私にとって、桜の鑑賞の句というより、人生の行動指針の一つとして祖母より繰り返し聞かされました。   「いつなんどき、どんなことが起こるかわからない。
だから今やれることは明日に延ばさないで,すぐ片付けて
おきなさい」
と、耳にたこができるほど聞かされました。
         久しぶりに祖母のことと一緒にふと懐かしく思い出しました。

 旭川の河川敷で桜カーニバルが行われていますが、お祭り騒ぎと、なんとなくしっくりしない詩が多いですね。
ひらひら落ちる花びらを見ながら先人(せんじん)に思いをはせ、静かに一献(いっこん)傾ける風情(ふぜい)のほうがなんとなく似合うような気がします。年のせいですか。

                   【独白(どくはく)

 3月15日の悠学日誌で崎県議会での児童生徒の戦没者追悼行事への参加に、昭和24年の文部省通達をたてに参加を禁止した件をお知らせましたが、今日の新聞で(28日)、渡海紀三朗文部科学相「通達はすでに失効していると明言した」と報道されていました。
文科省にしてはななかすばやい反応だなと感心しました。
この件に限らず、何かにつけていつまでも戦後を引きずっていないで未来に向けて前向きな発想をしていきたいものです。
 
 国歌「君が代」を歌えるように指導する。と学習指導要領に明確化したようですが、反対意見もあるようです。
普通に考えて日本人が日本の国家を歌うのになぜ反対なのか良く分かりませんが、ここにも戦争の後遺症が残ってると思われます。
皆さんも「一方を聞いて沙汰するな」(2月18日)という言葉を思い出して、いろいろな角度から検討を加えてみてください。
 ただ「進歩主義者」とか「進歩的文化人」といわれる人の話はよくよく気をつけて聞いください。
この人々はアメリカの政策に便乗して、「国家」とか「君が代」をはじめとして、およそ日本の歴史的、伝統的なものは尾ひれをつけて一切否定してしまいます
私自身もそれによって育てられたきた年代で、最近やと目覚めて、ただ今勉強のしなおし中です。
皆さんも気をつけてください。

 今月13日大阪府門真市の中学校で行われ卒業式で約170人の卒業生のうち男子生徒一人を除く全員が国歌斉唱に起立しなかったそうです。こんな状態が正常だと思いますか。
教育の恐ろしさを感じると同時に、一人立った男子生徒に良くやったと拍手をおくりたいと思います。
自分の生まれた国に誇りがもてなくて、世の中に役立てるような
人間になれるわけがありません。

“羹(あつもの)にこりて、(なます)を吹く”ような教育一日も早くやめてほしいものです。

                         【追伸】

 3月31日(月)の産経新聞に曽野綾子氏が「国旗・国歌」に対して次のように述べておられます。
自国の国旗と国歌に起立する習慣をつけることの目的は、たった一つ、国に行ったとき、相手国の国旗と国歌に起立するという基本的な礼儀を教えることだ。それが目下のところ、全地球上の人々が取っている平和的姿勢の表現だ。』と。
 世界各国を回ってボランティア活動を続けておられる氏は、意図的に食事の前に手を洗わないそうです。それは途上国の僻地にも良く出かけるので、日ごろから不潔を気にしない心理におき、神経症にならないようにしているからだそうです。 
          (日ごろの心がけがすごいですね。その精神を見習いたいものです。)

  『先生は食事の前には手を洗えと指導する。衛生上それは悪ではなく、善であり社会の常識になっているからである。しかし、それを守らない子供がいてもいい。教えを守らない時、始めてその生徒は、自分の立場と責任を自覚している。しかし、教師がはじめから「手は洗わないほうが良い」と教えたら、それはやはり非常識で、混乱を生じさせる。
 ごくごく常識論だと思いますが、「文化的社会人」と呼ばれる人の中には、これにも目をむいて反発されるのですから、よく分かりません。みなさんはいかがお考えでしょうか。

「総合的知性」を磨こう
【3月26日(水)】   「総合的知性」を磨こう

 戦後の日本は戦争に負けたというショックはもちろん、「閉ざされた言語空間」の中、日本人を骨抜きにする情報にあふれかえり,もろもろの精神的な痛手から立ち直ろうと苦闘していました。
 そんな中、1949年湯川秀樹博士に届いたーベル物理学賞受賞の知らせは、日本人に大いなる希望と自信を与えた出来事の一つでした。
それこそ「日本から世界を変える」革新的アイデアが日本から発信されたわけです。

 ところで湯川樹士ですが、小さいころは「論語」「史記」などの中国の古典を徹底的に素読(そどく)させられていたようです。漢籍(かんせき)素養(そよう)は、理論物理学には直接関係ないように思われるかもしれませんが、脳の仕組みから考えると、漢文の素読で培われたような総合的知性が、「中間子理論の独創」につながった可能性は高いそうです。
つまり総合的な教養や、知性という「裾野(すその)」があって、初めて鋭利な専門的能力も立ち上がるようです。               茂木 健一郎著 「それでも脳はたくらむ」 より

 「数学」が嫌いだ、「英語」嫌い、そんなものは生きていくうえで将来必要はないという人が時々いますが、総合的知性があればこそ、予想できないような問題の解決の大きな力になってくるということを知っておいてください。
限られた時間で勉強もし、部活もしなかなか大変でしょうが、みんな乗り越えてきた道です。
自分の弱い気持ちに負けずがんばっていきましょう。

「勉強の中へ逃げ込め」
【3月28日(金)】    「勉強の中へ逃げ込め」

 先日(25日)福沢諭をお手本に「これ以上できないというぐらい勉強してみれば悩みなんか吹っ飛ぶのでは」とお話しましたが、茂木(もぎ)健一郎氏もバレリーナーの吉田(みやこ)さんの体験をヒントに同じ意味のことを言っていました。
 
 吉田都さんはロンドンにバレ留学をしてロイヤル・バレーのプリンシパを目指し練習を
していたそうです。
当初は技術的には自信があったようですが、自分の姿、形という肉体的な欠点から、芸術的な
表現の力において見劣りがすると感じ、コンプレックスの(かたまり)だったようです。
 
 人間は弱いから、不安や迷いがある時にはついつい逃げ出したくなる
目の前の課題とは関係のないことの中に逃げ込みたくなります。
しかしそれでは一時的な気分転換や気晴らしなっても、
          課題の根本的な解決には直結しません


 吉田さんのすごさは、自分の姿かたちや表現力に迷いを感じたときに、「バレー」という
     「課題そのものに逃げ込んだ」
ことにありました

不安を感じている自分自身を忘れるために、
        練習の中に逃げ込んで、ひたすら没入する
 
 周囲が驚くほどの猛練習
で、吉田さんはその卓越した技術に磨きをかけ、
すばらしい表現力を身につけられたようです。
        その後見事ロイヤル・バレーのプリンシプルになられました。

 受験が不安で、勉強が手につかないというのでは、合格することは難しい
   受験が不安ならば、勉強の中に逃げ込んでしまえばよい。

目の前に立ちはだかる課題が不安を与えるなら

      その課題そのものの中に逃げ込んでしまえばよい


課題と自分が一体になることで、迷は消え、実力も上がって一石二鳥の効果が得られる。
                         茂木 健一郎 著 「それでも脳はたくらむ」 より

福沢諭吉
【3月25日(火)】  福沢諭吉

 (ぜに)は万人の欲するところにして、これを得ることはなはだ(かた)し。
      ただ(かた)きがゆえにこれを得んとして熱心勉強す。
            人情の自然というべし。』

ホリエモンの事件があって以来、金儲けに対する警戒感が強いようですが、福沢諭吉
『大いにお金を(かせ)ぎ出そうと熱心になり、
勉強することは結構なことで別に何人(なんびと)も遠慮するには当たらない。
         人情の自然、やるべし、やるべし
  と勧めておられる。

また
正直に働いて、正直に貯めた金であれば、それはそれだけ、その人が(しゅう)に超えて勉強した立派な証拠になるものであって、人はなんと言おうとも、自らもって満足すべきであろう。』
といわれる。
        藤原銀次郎著 「福沢諭吉 人生の言葉」より

 お金儲けのために勉強するなど、なんとなく邪道(じゃどう)のような感じがしますが、これも立派な一つの考えだろうと思います。自信を持って「金持ちになるために勉強する。」と宣言してみてはいかがでしょうか。ただし悪いことはしないように。
 
 福沢諭吉は緒方洪庵の『適塾』に安政2年(1855年)20歳で入門しました。
当時のことを『ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした目が覚めれば本を読むというくらしだから、適塾にいる間、枕というものをしたことがない。夜は机の横でごろ寝をしたのだ。』と語っておられます。

 皆さんいろいろ悩みもあるでしょうが、これ以上できないというぐらい勉強をしたというぐらい一度やってみると悩みなんか吹っ飛ぶような気がしますが、いかがですか。


水戸家の役割
【3月24日(月)】   水戸家の役割

 篤姫(あつひめ)健気(けなげ)にも斉彬(なりあきら)の期待にこたえて「私の意思で江戸へ参りとうございます。」と決意を述べて江戸へ出てきたころ、水戸でも
一橋慶喜(よしのぶ)
(17歳)の身の回りの世話をする一人の女性が、波乱の人生を覚悟して江戸へ向かおうとしていました。 
その名を一色須賀(いっしき すが)
(18才)という。
 
 御三家の水戸家と幕府の間には尾張、紀州とは違った、特別な関係があった。すなわち
「将軍家は本家、主人は禁裏(きんり)」という厳しい両者のけじめだ。つまり、幕府と禁裏(きんり)が激突するときには、水戸はすすんで禁裏(きんり)のお味方をするようにという東照権現さま以来の言い伝えであった。

 時代は攘夷(じょうい)、開国と単純に騒いでいるが、水戸斉昭は攘夷を唱えながらも、
吉田松陰(しょういん)と同じく自ら海外に渡りたいという意見書を幕府へだすぐらいの開国論者でもあった。つまり攘夷(じょうい)は開国を前提としての必要欠くべからざる精神面の武装であると捉えていた
 
薩摩の島津斉彬(なりあきら)越前の松平慶永(よしなが)土佐の山内容堂(ようどう)伊予の伊達宗城(だて むねなり)など天下の四賢候(けんこう)といわれる人も同じ考えであった。

 したがって幕府の出方しだいでは水戸と、慶喜が引き受けんとする幕府の間での
(いくさ)も想定されるそういう混沌とした時代であった。
そうした中、
厳しさに引き下がるのでなく、その厳しさに反応するように、水戸女性の激しさが須賀の中で勢いよく芽を吹き出してきた。
しかも、
困難は多ければ多いほどやりがいがあると感じられ、慶喜を守護して周りと戦っていこうという決意をしたのだった。

 ちなみにこの江戸行きを勧めたのは藤田東湖(とうこ)であった。
                                              
 山岡荘八著 「一橋慶喜」より

茂木流受験克服法
【3月27日(木)】    『茂木(もぎ)流受験克服(こくふく)法』

(1) まず 何より大切は 「集中力」である

  集中力を養うには「時間制限」を設けるのも一つの方法である。ストップウオッチを側に
おいて制限時間内で、あるいはその前に、なるべく早く終わらせるように心がけた。
適度の時間の制約
の中で、心地よい緊張(きんちょう)感を持って問題に臨むと言う経験は、、
         集中力を養うために必要不可欠(ふかけつ)の要素であると思う。

(2) 次に 試験にかせない「記憶力」である

   様々な「モダリティ」を総動員する。
           「モダリティ」とは「視覚」「聴覚」といった感覚の種類を表す専門用語
「漢字」
を覚えるのだったら、黙読(もくどく)し、実際に書いてみるとともに、音読してみる
歴史上の様々(さまざま)な事項
も、教科書や、参考書を読み、声に出し、さらには書いてみる
このようにできだけ多くの「モダリィ」を動員することで、記憶の定着が良くなる。

(3) 勉強において何より大切なことは「楽しんでやる」ことである。

   苦手なことを楽しめる筈がないと言うかもしれませんが、なんとしてでも
勉強に喜びを感じるようにできなければ、効率を上げることなどできないのである。
   つまらないと思ってやっていても、時間の無駄である。

 
  脳は快楽(かいらく)主義者
で、何かをやって喜びを感じると、その時の行動を支える回路が
強化される
。脳内でうれしいことがあったときに分泌される、「ドーパミン」の作用により、
         その放出前に行っていた行動の回路が強化されるのである。


  受験勉強も、「頭を使うこと自体が喜びである」という
                          境地に達すれば、怖いものは何もない。


(4) 最後に 「気分転換」の大切さを強調したい。
   勉強を集中してやって、終わったらぱっと気分を切り替えて遊。
  時間になったら、また一気に集中する。そのようにメリハリ」をつけるようがけてみよう。

                               茂木 健一郎 著 「それでも脳はたくらむ」 より
 
  * 「脳を生かす勉強法」 (茂木 健一郎 著) より 、 「勉強」というものをいろいろな角度から   考えていきます。悠学日誌のほうにもアクセスしてみてください。

 

勝海舟
 【3月23日(日)】   勝 海舟(かつかいしゅう)

1852年(嘉永5年)。


 
幕臣(ばくしん)麟太郎(りんたろう)(海舟)は、剣を剣聖といわれた男谷(おとや)精一郎の、弟子・
島田
虎之助に学び、一方で小さな蘭学の塾をやって細々と暮らしていました。
 このころ
島津斉彬(なりあきら)は世情不安定な折から、剣客とし名前の売れていた
島田虎之助
を千石で召抱えようとしましたが、運悪く彼は病気で亡くなってしまいます。
歴史に「もし」はありませんが、もし彼がここで亡くなっていなければ、
西郷隆盛勝海舟の出会いはもっと早まっており新たな歴史の展開があったかもしれません。
 しかしこの年に別の出会いがあります。海舟の妹・
お順(17歳)と佐久間象山(さくましょうざん)(42歳)との結婚です。
「海舟」(かいしゅう)という号はこのとき象山が勝麟太にった横額「海舟書屋(かいしゅうしょおく)」からとったようです。
吉田松陰はこの佐久間象山の弟子になります。そのため翌年松陰がアメリカへの密航を企て捕らえられたとき、象山(しょうざん)も捕らえられ同じ伝馬町(てんまちょう)の牢に入れられてしまう。
この時代のエリートはどこかでつながっています。

1853年(嘉永6年)

 6月3日 アメリカ東インド艦隊司令長官
ペリーが軍艦4隻を率いて、浦賀沖に投錨。
 6月22日 12代将軍
家慶(いえよし)が61歳で亡くなる。
 7月18日 司令官の
プチャーチンに率いられたロシア極東艦隊の黒船が長崎に入港。
  8月21日 この混乱の中 「
篤姫(あつひめ)」はいよいよ薩摩を離れて江戸へ出立することになりました。
薩摩から江戸までおよそ2ヶ月。参勤交代の費用は今のお金でおよそ
5億円もするそうです。
この制度によっていかに大名の懐具合が悪くなったか、徳川幕府が300年近くも続いた理由が良く分かります。
しかしこの体制が崩れるのも後わずかになってきました。

聖賢(せいけん)への道
【3月22日(土)】  聖賢(せいけん)への道

 吉田松陰は今の山口県萩市で、天保元年(1830年)8月4日、杉百合之助(ゆりのすけ)の次男として生まれました。
4歳のとき叔父
(百合之助の次弟)で、長州藩の山鹿流(やまがりゅう)兵学師範、吉田大助の養子となります。
松陰は驚くほど早熟で、なんと10歳から藩主、毛利敬親(もうりたかちか)
御前(ごぜん)で講義を行い激賞されたようです。
その後
弱冠(じゃっかん)17歳で藩校・明倫館(めいりんかん)山鹿流兵学師範となっています。
  の幼い松陰を育てた師の一人に叔父の玉木文之進がいますが、この人の教育がすごい。まさに
「苛烈」そのもの。
授中に弟子たちが少しでも首を傾けたり、わき見をするのを見つけるや否や、
まず書物を取り上げ、それからその弟子を窓から外にほおり投げたそうです。 
 
   すごいですね。君たちに耐えられますか。
松陰ですら、ひどいときには教室から5m位離れたところにある崖まで連れて行って投げ飛ばしたそうです。

しかし松陰はこの体罰を伴う「善意」「耐えるのではなく、積極的に受け止めていた」ようです。結果を出す人は受け取り方が違いますね。 
                       「厳しさと激しさの中で人は伸びるのだ」 星野仙一 (3月20日)

ちなみに日露戦争で第三軍司令官を務めた陸軍大将、乃木希典(のぎまれすけ)も彼の門人だったようです。
 玉木文之進の思想を形作っていたのは
朱子学です。そこでは学問とは「小学」「大学」に大別されます。
「小学」とは、行儀作法に始まり、両親を愛し、年長者を(うやま)うことにいたるまで、
幼少
のとき身につけるべき礼儀や教養のことを言います。

「大学」は、「小学」をおさめた後、抽象的な道理を(きわ)めることです
だから
幼少時代にいかに「小学」をおさめたか聖賢(せいけん)への道」
歩むために決定的な意味を持つわけです。

 
現在の教育でかけている部分がはっきり見えてきますまずは、基本になる「小学」が決定的に欠けています
「どぎゃんかせんといけません」ね。足りないところを補うよう意識して努力していきましょう。

    
  “ Late, but   never   too   late  ”

“輝く雲”をつかむために
 【3月21日(金)】   “輝く雲”をつかむために

野球の星野監督の話を続けてきましたが、今日はバレーの松平康孝監督のお話を聞いてみましょう。
彼は全日本男子バレーのコーチ、監督を歴任され、東京五輪で
「銅、メキシコ五輪で
「銀」ミュンヘン五輪で念願の「金」を獲得された監督です。

その彼が  
 『人生というものは何もしなくても一生、何かを成し遂げても一生、
    
私はやはり生きるということは、何かをすることだと思うんです。
    それがバレーボールだろうが、芸術だろうが、学問だろうが何でもいい。
  私は、
「俺はこれを成し遂げたんだ」ということを、死ぬときに自分に言って
 聞かせることのできる人生
であってほしいと思っています。』 といっておられます。

 そのためには(ひが)みっぽい男はダメです。
    (くや)しさがひがみに行き着いてしまう男、これは救いようがない。」

 「男の人生は、
悔しい思いをいかに向上のための力に変えていくかだ

  そうです。         (「ふたたび“輝く雲”をつかむために」
より 「正論」1月号)

 毎日が忙しくて大変でしょうが、たまには将来を見据えて、
「自分にとって今本当に大事なものは何か」を 考えてみるのも大切だと思います。

『厳しさと激しさの中でこそ人は伸びるものだ。』
【3月20日(木)】   『厳しさと激しさの中でこそ人は伸びるものだ

 星野監督の学生時代の話を読んでいたら、私も昔のことが懐かしく思い出されてきました。
それにしても明大野球部時代の練習というのはすごいものですね。
夏なら朝4時半、冬なら朝5時半練習開始。
島岡吉郎監督もそれより1時間も前に起きて身支度をして合宿の玄関で待っておられたそうです。
島岡監督の下で修行をしたら、もう世の中に怖いものは何一つない」ぐらい恐ろしい鬼神のような教育だそうです。

練習試合でも
命がけのプレーと態度を要求され、骨の髄から(しぼ)り出すような気迫が前面に出ていなければ、怒声(どせい)罵声(ばせい)鉄拳(てっけん)が飛んでくるそうです。
グランドでは一片の、どんな言い訳も弁解も許されないのだから、
不撓(ふとう)不屈(ふくつ)闘魂(とうこん)執念(しゅうねん)、気力といった活字がグランドに嵐のように舞い躍っているだそうです。

 こうした中で「厳しさと激しさの中でこそ人は伸びるもの」という指導者としてのゆるぎない哲学を身につけられたようです。

 練習では厳しい島岡監督でしたが、裏表がなく,ケタはずれの熱情家で怖い人で
あったけれど常にそれに匹敵するほどの優しさや温かさを併せ持ち自分の息子ほどの年の選手の声も聞く
 なん十年も都内の自宅には帰らず、選手と寝食を共にする「合宿暮らし」を通した、本当の意味で威厳をもった教育者だったそうです。

マイホームパパなどという言葉がもてはやされ、今ではこうした指導者が
「時代遅れ」と否定されかねない雰囲気があるのはまことに残念です。
でも、歌の文句ではありませんが、私は「時代遅れの男」になりたい。
「時代が違う」という声が聞こえそうですが、時代が違っても大切なものは残していきたいものです
  「宇宙艦ヤマト」の作者・松本零士氏も次のように言っています。

 『勉強であれ、運動であれ少年時代のある期間、
    
歯を食いしばってとことん頑張って(いど)むことなくして、
           その後の人生をたくましく生きられるでしょうか。』

   「歯を食いしばって」島岡監督の指導に耐えた星野監督は「その後の人生を
        たくましく生きてこられた」
  ようです。お手本にしたいものです。

合格おめでとう!!!
 今日はあいにくの雨の中、公立高校の合格発表がありました。

朝からうれしい電話がつづきましたが、一方で中には残念な知らせもありました。

雨の中せっかく合格発表を見に行って、掲示板に自分の受験番号がなかったときのあのショックは、

一瞬頭を真っ白にさせる何ともいえない残酷なものであります。大学受験のときでしたが、私にも苦い思い出があります。


  「厳しい練習を乗り越えたやつと、まあいいかと、挫折してやめたやつとの差っていうのはどこかで、

 後の人生でも大きく出るんだやってみて、頑張ってみて、結果を見なきゃあわからない

  で、たとえ結果が悪かったとしても、それはそれでいいじゃないか

      お前、自分でもやることやったな”ときっと思うよ。」  


  「ガックリくるとやる気もなにも、思考力すら一瞬にしてなくしてしまう。ガックリくると何の動きも止まって

 自分自身まで失くなってしまう。私が一番恐ろしいのはこうしてガックリしてしまうことなので

 「ガックリするよりカッカしろ」
と自分に言い聞かせている。」      星野仙一著 「星野より

  まったくそのとうりで、「おれを、私を落としたことをきっと後悔させてやるぞ。」というぐらいの強気で

 新しい未来に向かって前進していきましょう。「人生の勝負は、まだまだこれかららです。」

 高橋尚子も今「あきらめなければ夢はかなう」と次の目標に向かって頑張っているはずです。

  春休みです。時間はたっぷりあります。星野仙一の「星野を読んでみて下さい。元気が出ますよ。

『星 野 流(ほしのりゅう)』
  「星野仙一記念館」が倉敷美観地区に19日開館します。星野氏を迎えてオープンセレモニーが行われていました。

北京五輪で金メダルを取って、初めてこの記念館は完成すると思っている。今は勝つことしか頭にない。

と決意を表明されました。みんなで応援したいものです。

 最近「星野を出版して「燃える男」らしいメッセージっを発しています。彼も「男」ですね。

 『どんなことがあっても諦めちゃあいかんぞ
。みんな沢山の給料もらおうじゃないか。

 そうすれば家族も養える。安心して暮らせる。「そのためには」頑張らなくちゃあいけないぞ

        大きな家に住みたいでも、いい車に乗りたいでも何でもいい。

  まず、そういう目的を持って、 そこに
邁進(まいしん)していけばキット道は開けるんだから。

 「そのためには」きつい練習もしなくてはいけない人に負けない努力もしなくてはいけない

 そうやって「そのためには」「そのためには」というものを沢山作って、それを一つ一つクリヤーしていこう。

      そうやっていけば
黙っていても幸せに近づいていけるんじゃないか。』


  『若いころに、さあこれから何かを成していこうというときには、フロシキでも
片意地(かたいじ)でもなんでも

 少し大きめに広げて見せなければいけないように思う。目標が小さいと、

      小さかったら小さいなりに  どうもまとまってしまう


 やっぱり我々人間には少し背伸びをしても届かんようなところに目標を置いて背伸びもして、

    見栄ぐらい張って生きるぐらいの気概(きがい)や態度が必要だと思う』



 『高校時代は平松と、後にヤクルトのエースになった松岡弘岡山の三羽烏”といわれたが、

     ピッチャーの素質としては彼らのほうがずっと上だった。』


  『プロに入ってからも私は自分の弱みを倍の強みにして、そうした“ハート”で投げるピッチャーだった。

 気持ちでは負けない。右でも、左でもバッターの胸元をどんどんついていく、せめていくのが取り柄(とりえ)

  そういうピッチャーだった。』
                                     星野仙一著  『星野


    快男子(かいだんし)」という言葉がありますがまさにこの言葉にぴったりののようです。

『石井 十次(じゅうじ)』
 【3月15日(土)】  『石井 十次』
 今日の山陽新聞に特集「先人の風景」として「児童福祉の父」・石井十次(じゅうじ)の事が載っていました
倉敷の実業家大原孫三郎らの支援を得て福祉活動に専念されていたことはうすうす知っていましたが、
あまり詳しく知る機会に恵まれませんでした。「石井のお父さんありがとう」という映画にまでなっていたとは、そういえば聞いたことがあったなと言うぐらいの記憶しかありませんでした。

 この筆者の横田賢一氏も指摘されていますが、「戦前、十次が修身(道徳)の教科書に取りげられたため、戦後は逆バネが働いた・・・・などがあって、教科書からも長く抹殺(まっさつ)されていたのだ。
ここにも「閉ざされた言語空間」があったのです。
一日も早く(あつもの)()りて(なます)()く」ような真似はやめたいものです。
私ももう一度詳しく石井十次氏の事を見直してみたいと思っています。「男」のようですぞ。

  GHQ(連合国総司令部)の占領政策の名残はまだまだあります。昭和24年文部省通達によって
子供たちの神社、仏閣への訪問、特に靖国神社、護国神社への訪問は禁止されたそうです。
ところが占領が終わって当然効力を失っているはずのこの通達がまだ亡霊(ぼうれい)のように生きているようです。
たとえば6年前の長崎県議会で、児童生徒の戦没者追悼行事への参加は、この通達をたてに県側は「ふさわしくない」と答えたようです。国のために亡くなられた方に哀悼の意をささげることを教えるのは重要なことです。命の大切さを教え、戦争の悲惨さを実感させるためのいいチャンスにもなるはずです。

『明日(あした)への遺言(ゆいごん)』
 【3月15日(土)】     『明日(あした)への遺言(ゆいごん)
明日(あした)への遺言」見てきました。戦後のあの混乱の中で日本人としての誇りと品格を失わない「男がいました。なかなか見ることのできない「男」がいました。

原作は大岡昇平氏の「ながい旅」ですが、なぜ
「明日への遺言」にタイトルを変えたか気持ちが良く分かるきがします。

昨日の「滴一滴」で最近の男の子が精彩がないと指摘されていましたが、まさにこのことを心配して自分の命をかけて米国との「法戦(ほうせん)」を闘ったのだと分かりました。

 彼は
「敗戦直後の世相を見るに言語道断、なにもかも悪いことはみな敗戦国が負うのか。何故堂々と世界環視の内に、国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、また重大なる戦因なりしことを明らかにしようとしないのか。」と堂々と相手と渡り合っていきます。

 この
岡田(たすく)信念と誇りをかけた真摯な態度は相手側検事のみならず、裁判官まで味方につけてしまうほど実に魅力的で、別に荒々しく、力感あふれるというわけでもありませんが、ただ淡々と、理路整然と自分の気持ちを述べ、無差別爆撃という戦犯罪を法に照らして堂々と追求し、しかも起こったことのすべての責任を自分が引き受けるというじつに惚れ惚れするような男ぶりでした。
 命を懸けて後世の日本人に何かを伝えたかった人は、これ以外にもたくさんの人がおられると思います。
「特攻
の生みの親といわれた大西瀧治郎(たきじろう)もその一人です。
「そんなものは
作戦の外道(げどう)だと最初は反対していた彼が敗戦の目前になってなぜ
「特攻」を決行したのか。

彼自身はこう言っています。
 「ここで青年が起きなければ、日本は滅びます。
 
しかし青年たちが国難(こくなん)(じゅん)じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、
  
日本と日本人は滅びないのです。」

若い優秀な命を犠牲にした彼は、終戦の翌日、8月16日責任を取って割腹(かっぷく)自殺を図ります。
しかも駆けつけた軍医の治療を(こば)「これで、私が送り出した部下たちとの約束を果たせる。」と、なんと15時間も()えて苦しみながら出血多量で絶命したそうです。

 なぜこうしたすばらしい男たちのことを自信と誇りを持って子供たちに教えないのでしょう。

 アメリカを始め、戦勝国はこんなすごい「日本人」が怖かったのです。
礼儀正しく、勤勉で頭がよく、しかも勇敢な日本人
が怖かったのです。
 だから江藤淳「閉ざされた言語空間」にも指摘されていますが、戦後米占領軍
実施した
日本人を骨抜きにするために行われた隠微(いんび)検閲(けんえつ)の烈しさはすさまじいものだったようです。骨抜きにされたマスコミも未だにたくさんあります
 
 残念ながら「閉ざされた言語空間」は現在でも見えないところで続いており、一昨日私が触れた「たくましい男を育てない教育が行われている」ことにも
(つな)がっています。
 自由を満喫(まんきつ)しているかに見える日本にも、見えないところで大変な規制がかかっているようです。
しかし我々は命を懸けて後世に思いを託した先人の気持ちをしっかりと受け止めて、
「世界に恥じない日本人になるよう努力していく必要があろうと思います。

『21世紀へ生きる君たちへ』
【3月14日(金)】  『21世紀に生きる君たちへ』

 中学生、小学生の卒業式があちこちで行われています。

       みなさんほんとにご卒業おめでとうございました。

 今まで慣れ親しんだそれぞれの学びやに別れを告げて、新たなステップに向かって旅立って

いくわけですが、
いろいろなつらい別れがある反面、明るい希望の未来があります。

それぞれ自分の目標に向けてこれからも一歩一歩前進していってほしいと思います。


    『21世紀に生きる君たちへ』      司馬遼太郎
 

  鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさということを、大切にしてきた。

 人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。

 人間というのは男女ともたのもしくない人格に魅力を感じないのである

 もう一度繰り返そう。先に私は
自己を確立せよといった。自分に厳しく、相手には優しく、とも言った。

 いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、ともいった。それらを訓練することで、

 自己が確立されていく
のである。そしてたのもしい君たちになっていくのである。  

              《いつの時代になっても、人間が欠かすことのできない心構え》

「男の子問題」
【3月13日(火)】   「男の子問題」
 今朝の「滴一滴」で「男の子問題」をとりあげていました。

最近の男子はどうも女子が伸び伸びと育っているのに比べて、精彩(せいさい)を欠いているようです。

その原因として女性の社会進出が背景にあり、男女の能力に差がないことが明らかになり「たくましさ」など、これまで評価されていた男性的な価値が薄れたため、男子が自信をもてなくなったうです。
しかもこの傾向は日本だけでなく、先進国でも共通の傾向のようです。 (以上「滴一滴」より)

 さて「男の子」たる諸君、この見方についてどう反応しますか。ただあまり心配しないでください。
こうした傾向は子供たちにだけでなく、今の大人たちの中にも同じように見受けられます。

 先の戦争に負けた後、戦後の教育では大幅に価値観の転換が行われ、
意図的に「たくましい男」を育てないような教育が行われてきたと私は考えています。
現在もそれは続いています。
その結果が今のわれわれ大人であり、君たちなのです。ただ誰かのせいにしても問題は解決しません。

 今この「悠学日誌」で、私にとって「お手本となるような男」を捜しています。参考にしてください。
  (ちなみに現在まで取り上げた「男」たち。桑田真澄元巨人)、松下幸之助
野村忠宏
柔道片山像三西脇の織物会社社長)、 高畠導宏元プロ野球コーチ)、
老中・阿部正弘相田みつおベートーベン西郷隆盛、大久保利通、坂本竜馬 
桂小五郎、武市半平太、勝麟太郎
等です) 昨日の緒方洪庵もその一人です。

 今度の日曜日には時間を作って見に行きたいと思っていますが、明日(あした)への(ゆいごん)岡田(たすく)「男」の一人です。後日ご報告します。

 日本にはすばらしい「男」たちがたくさんいましたもちろん今もたくさんおられます
そうした人々の生き方を参考にしながら自分男」を磨いていきたいものです。

誰かのせいにしても何も解決しません。お互いに「自分男」は自分で磨いていきましょう。

幕末は私にとって「男の宝庫」です。ぼちぼち紹介します。

劣等感(れっとうかん)ばねに「道は開ける」
 【3月12日(水)】   劣等感ばねに「道は開ける」

 「人間は、人並みでない部分をもつということは、すばらしいことなので
     ある。そのことが、
ものを考えるばねになる。」

 (司馬遼太郎著「21世紀に生きる君たちへ」の中の「洪庵のたいまつ」より。小5の教科書へも掲載)
 総社の永田さん(80歳)は「超」がつくほど小さく、小学校のころからずっと人並みでない(かな)しさを味わっていたようです。
ところがこのことばに出会って、背の低さを重り(おも)として引きずっていくのではなく、
与えられた「ばね」として生かしていくことを思いつかれたそうです。      
                                    (3月11日【ちまた】欄より)

  緒方洪庵(おがたこうあん)は岡山氏足守の出身で、生まれつき体が弱く、塾や道場をしばしば休み歯がゆい思いをしたようです。
 だからこそ、彼は人間について考え人間が健康であったり、健康でなかったり、また病気をしたりするのは、いったい何に原因するのか考え込んだようです。

 禍福(かふく)はあざなえる(なわ)(ごと)し」といわれますが、

まさに「人間」気持ちの持ちようと努力で、どんなにも変わっていくものだと教えられます。。

 
緒方洪庵(おがたこうあん)が大阪で始めた「適塾」(てきじゅく)は時代の俊英を数多く輩出しましたが、洪庵は自分自身と弟子たちへの戒めとして「12か条の訓戒(くんかい)」を作りました。その第1条に

「医者がこの世で生活しているのは、
       人のためであって自分のためでない
    決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな
   ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけ考えよ。

と言っています。自分のことしか考えない人の多い今日、思わず襟を正したくなるような言葉です。
            ここにも「男」がいました。お手本にしたいものです。


青春とは心の若さである

「青春とは心の若さである。

信念と希望にあふれ、勇気に満ちて日に新たな活動

をつづけるかぎり、


  
青春は永遠にその人のものである。 
                           
                                    (「松下幸之助の青春のことば」より)

 アメリカの詩人サムエル・ウルマンの「青春とは」の冒頭の

「青春とは人生のる期間をいうのはなく、心の様相を言うのだ」

からアレンジしたようです。    

  (北康利著 「同行二人(どうぎょうににん)」より 産経新聞)


さに名実ともに青春の真っ只中にいる君たちは、大切にそれ

ぞれの「今」を楽しんでもらいたいものです。

『人事(じんじ)を尽(つ)くして天命(てんめい)を待て』
  さあ今日はいよいよ高校入試です。

ここまできたら、いまさらあわてても心配しても始まりません。

人事(じんじ)を尽くして天命(てんめい)を待て」といいます。

最後まであきらめることなく全力で問題に取り組んでください。

 昨日の北京オリンピックの代表選考会は最後の一つのイスをめぐっての熾烈(しれつ)な闘いでしたが、皆さんの場合はそんなに厳しくありません。

 高橋尚子さんは代表に選ばれる可能性は絶望的でしたが、腹痛で途中トイレに駆け込むというハプニングにも負けず最後まできっちり走りぬきました。この姿勢がすごい感動しました

残念なが今回は代表選手にはなれませんでしたが、人生まだまだ長いこれからだ

この姿勢をQちゃんが続ける限り必ずやさらに大きな夢を実現させてくれるとおもいます。

今朝の新聞で「悪い現実も、良かったことも受け止め、次に進みたい」と言い切っていました。

頑張れ、Qちゃん。   あきらめなければはかなうです。

 皆さんも、途中多少できないところがあっても決て弱音を吐いてはだめです

最後の最後まで問題にかじりついて、自分の限界に挑戦してみてください。あきらめたらそこで終わりです。

火事場(かじば)馬鹿力(ばかじから)ともいいます。集中して必死でやればおもわぬ力が出てくるものです

 高畠先生も人生はあきらめてはいかん。気力で乗り越えろ。と、応援してくれています。

             
頑張れ!!!

『あきらめなければ夢はかなう』
Qちゃんこと高橋尚子選手の言葉ですが、残念ながら今回は北京への夢

かないませんでした。


しかし不調の中もくもくと42.195kmを走りぬいた精神力には圧倒されました。

ゴールまで本当に長い時間だったと思います。

一日も早く怪我を治して復活してほしいものです。

 一方で、初マラソンでこの「言葉」を現実にしたのは「岡山てんまや」の新鋭

中村友梨香選手でした。

高校の先輩でもある坂本選手
(今回10位)を目標に、「マラソンで五輪出場」

大志を抱いて「てんまや」に入社したようです。
おめでとう!!!

こんなに早く夢が実現するとは本人にも信じられないことでしょう。

今後の活躍を期待します。

 しかし、それにしてもどのスポーツを見ても「怪我」が多いのには驚かされます。

プロはもちろん、一流選手間の競争はすさまじいものがあるのが感じられます。

この世界では相手との闘いの前に、自分との闘い、怪我との厳しい闘いがあるようです。

 勉強だってこれだけ本気で取り組めばかなりのものになれるはずです。

もしきみが「学力向上」を本気で目指すなら、やはり相当の努力が必要でしょう。

どの世界も決して甘くはありませんが、

 
『あきらめないで努力を続けていけば夢はかなう』

と信じてがんばっていきましょう。

『御台所』(みだいどころ)

 
 「篤姫(あつひめ)はいよいよ十三代将軍家定の「御台所(みだどころ)」として徳川家へ(とつ)ぐことを告げられました。、

しかも「薩摩から日本を変える」という斉彬(なりあきら)の熱い野望に健気(けなげ)にも理解を示し、決意も新たに

日々の修行に励むことになりました。(「東京から日本を変える」と頑張っている知事もいます。

 江戸ではぺりーがアメリカ大統領フィルモアの国書を渡し、6月12日
(1953年)に

やっと日本を離れ、一時的にせよ外患は去った。

 しかしそれからわずか10日後、12代将軍家慶(いえよし)が亡くなるという内憂が現実のものになる。

しかも7月18日にはロシアの極東艦隊が長崎に現れて、司令官のプチャーチンがどこかで

ペリーと連絡を取ったらしく、アメリカの要求と同じ和親通商条約の締結を求めてきていた。
                                     (堀和久著「徳川慶喜」より)

まさに問題は山積。しかも次期将軍候補家祥(いえさち)暗愚(あんぐ)で、とてもこの難局を乗り切る器量はない。

一方で斉彬(なりあきら))などを中心に健康で英明な一橋慶喜(よしのぶ)を将軍にというも上がっていた。

しかし老中阿部正弘慶喜(よしのぶ)未だ時期尚早(しょうそう)家祥(いえさち)13代将軍家定(いえさだ)として誕生させた。

 「篤姫(あつひめ)」が江戸に下ろうとしていたのはまさにこの混沌とした状況の中であり、

斉彬(なりあきら)の14台将軍は慶喜(よしのぶ)にという思惑を実現するための手駒(てごま)としての「御台所(みだいどころ)」であったようでした。

『断(だん)じて行えば鬼神(きしん)もこれを避(さ)く』

受験生から見れば大人がいかにふるい落とすか考えているように見えるかもしれない。

だが、そうではない。大人は若者たちが力を出し切ることだけを願っている。

すでに結果が出て、
(こころざし)ならずという人もいるだろう。世の中には知らない人も含め、

多くの応援団がいることを忘れないでほしい
」 
                                                                                      
「山陽新聞「滴一滴」より)

 
 
いよいよ受験シーズンも終盤に入ってきました。高校受験はいよいよ二日後です。

多くの中学生にとって人生最初の関門かも知れません。不安も多いかもしれませんが、

ここまでよく頑張ってやった自分をほめてやって下さい。周りに応援団もたくさんいます。

後は自信を持って本番に挑戦して下い。

(だん)じて行えば、鬼神(きしん)もこれを()く』です。  合格を祈っています。

『西郷隆盛(さいごうたかもり)』
 幕末の話をするときにはこの人をはずしては話が前に進みません

西郷はこのころ20代後半の下級武士。度重なる建白書がやっと斉彬(なりあきら)の目に留まって、

参勤交代で江戸に出るときお供に加えてもらい、まさに西郷が世に出る第1歩となりました。

 時あたかも日米和親条約が調印されて3日後(1854年) 、混乱の江戸に着いたようです。

その後斉彬(なりあきら)は西郷を「お庭方」(にわがた)に任命し、世界の情勢を説き、日本の世界におけ

る立場を教えたようです。

さらに水戸の藤田東湖(とうこ)等にも指導を頼み、、その後使者として水戸家、越前家、

伊予宇和島の伊達家、土佐の山内家、幕臣の川路聖謨(としあきら)等の元へ送り諸藩の有志たちと

の接触を助けたようです。

 こうして西郷は身分こそ低いが、藩侯のもっとも厚い信頼をうけ、天下の機密にも

通じている一流の人物として、諸藩の有志の間に認められてきました。

この当時はまだ12代
家定(いえさだ)の後は一橋慶喜(よしのぶ)を立てて外国勢に対抗していこうとする「攘夷(じょうい)」、

佐幕(さばく)」派でその後「尊皇(そんのう)」「勤皇(きんのう)」、 「倒幕」 に 傾き最後には、最初盛り立てようとして

いた 慶喜(よしのぶ)を将軍職から追放するという役割を担うことになります。
 
 
大久保利通(おおくぼとしみち)はこの時期貧乏所帯のやりくりに追われて薩摩で細々と生活していたようです。

 坂本竜馬はこのころ土佐から江戸へ出てきたばかりで、
桶町(おけまち)北辰一刀流千葉道場で剣術の修行中でした。

 土佐の吉田松陰と呼ばれた武市半平太(たけちはんぺいた)も江戸で修行中で、こちらはすでに

アサリ河岸の
鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)桃井春蔵道場の塾頭(じゅくとう)となっていました。

 また長州の桂小五郎(かつらここごう)のちの木戸孝允(たかよし)
神道無念流(しんどうむねん)・斉藤弥九郎の練兵館(れんぺいかん)塾頭

して江戸で活躍中であった。皆さんまさに
文武両道(ぶんぶりょうどう)。すごいですね。

 余談だが1854年浦賀近くの海防を担当していた桂小五郎
(22才)とその陣地を検分に行った

坂本竜馬
(20才)が剣を交える機会があったようです。なかなか迫力がありましたぞ。
                                         
(司馬遼太郎作「竜馬がゆく」より)
 
 桂小五郎の師匠である吉田松陰(しょういん)(25才)はこのときすでに日本の危機を感じ取り、巷に攘夷論が

あふれる中日本を立て直すには外国を知らねばならないと思い
(ひそかに密出国を考えていた。

しかも下田に停泊していた「黒船(くろふね)」に小船で近づき乗船を乞おうとしたが断られ、下田の役

人に逮捕され、江戸の北町奉行所へ護送されてしまった。

 幕臣勝麟太郎(海舟)はこのとき24歳。剣は
男谷(おとや)精一郎の門下島田虎之助に学び、蘭学

を永井
青崖(せいがい)先生にやっと習い始めたところ。攘夷論の盛んなこのごろ、江戸で蘭学を習う

というのはなかなか抵抗があって大変だったようです。
 
 さあ幕末の役者がだんだんと登場してきました。良くも悪くも命を懸けて国を憂えるすごい男たちの軍団です。

「男」のお手本がいっぱい登場してきます。あなたならどんな男になりたいですか。面白くなってきました。

合格おめでとう!!!
 今日は朝からうれしいニュースです。

大阪大学の合格発表がありましたが、小6の終わりから6年にわたって頑張ってきた

さんが見事合格してくれました。

本人も「信じられない」と喜んでいましたが、こちらも「あの子が、よくぞ」と、昔のことを思うと感無量です。

 昨日は地元岡山大学の合格発表もありました。こちらもさん、さんが見事合格してくれました。

ほんとに皆さんよく頑張ってくれました。心よりお祝い申し上げます。

ただ昔から「勝って(かぶと)()()めよ」といいます。

合格の味を楽しんだ後は、気を引き締めてしっかり勉強を楽しんでください。

徳川将軍家
この前の日曜日は同窓会で「篤姫(あつひめ)」が見れませんでしたが、ビデオでやっと見ました。

いよいよ名実ともに「篤姫」誕生となったようです。

一方江戸では十二代将軍家慶(いえよし)が亡くなり、第十三代家定(いえさだ)が誕生しようとしていました。

篤姫はこの後家定の正室になるのですが、ここでこれからも問題になる将軍家の系図を

八代将軍吉宗のあと見ておきましょう。
       

  *吉宗(よしむね)(8)ーーー 家重(いえしげ)(9)ーーー 家治(いえはる)(10)
            

            宗武(むねたけ)(田安家)ーーー定信(松平))

            宗伊(むねただ)(一橋家)ーーー治済(はるさだ)ーーー 家斉(いえなり)(11)ーーー斉順(なりゆき)ーー   家茂(いえもち)(12)                                                                           (紀州家)
                                          家慶(いえよし)(12)  家定(いえさだ)(13)


   徳川家最後の十五代将軍慶喜(よしのぶ)は水戸の徳川斉昭(なりあき)の七男・七郎麿で一橋家に養子に入り、

その後十四代家茂(いえもち)のあとを継ぐことになります。

 ちなみに斉昭候は子だくさんで五男・五郎麿は鳥取藩に入り池田慶徳(よしのり)に、

九男・九郎麿は岡山藩に入り池田茂政となっています。

 余談になりますが、備中松山藩からは老中板倉勝静が出ており、幕末における岡山藩の動きは

なかなか大変だったのではないかと推察されます。

 幕末の政界はこの将軍継嗣問題と密接にかかわりながら進んでいきますのでよく見ておきましょう。


再び「高畠先生」

 2月23日にNHKのドラマ「フルスイング」の高畠導宏氏の話をしましたが、今日の【ちまた】欄を

みますと、なんと高畠さんは倉敷市の出身岡山南高校から中央大学、社会人野球の

日鉱日立を経てプロ野球の南海ホークスに入団された方のようです。

 しかも現役引退後打撃コーチとしてイチロー選手落合選手を育てられたそうです。

すごい人だったのですね。私はたまたま途中からテレビを見たもので詳しい事情も知らないで

最後の場面に感動して「気力」の話をさせてもらいました。

改めて「人生はあきらめてはいかん。気力で乗り越えろ。」という言葉をかみしめたいと思います。

 高畠さんのご冥福(めいふく)を心よりお祈り申し上げます。
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