悠学舎・児童館スクールの塾生への応援メッセージです

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【5月26日(月)】  三浦雄一郎さん おめでとう
 三浦雄一郎さん おめでとう    【5月26日(月)】  

  「涙が出るほどつらくて、厳しくて、うれしい。
              本当にありがとう、ありがとう。」


 三浦雄一郎さんのエベレスト登頂後の喜びにあふれた第一声だったようです。
75歳という高齢にもかかわらず本当にお疲れ様でした。
本来なら世界最高齢になるはずだったのですが、前日の25日に76歳のネパール人男性が登頂に成功したため、残念ながらその栄誉は(のが)しましたが、見事な快挙には違いありません。
我々に勇気と、人間の可能性に対する自信を与えてくれたことに感謝したい気持ちでいっぱいです。

 それにしても、ご本人の並外(なみはず)れた努力はもちろんですが、見事な家族のチームワークでした。
特に、スポンサー探し、広報、庶務と裏方の仕事の多くを取り仕切った長女の恵美里(えみり)さん。
遠征に同行しベースキャンプで情報通信を担当したシステムエンジニアの長男、雄太(ゆうた)さん。
心臓に不安を抱える三浦さんの体調管理や、主治医に送信するデータ作りを担った、プロスキーヤーの次男、豪太(ごうた)さん。
遠征隊の食事に使う食材の調達を一手に引き受けたという最愛の妻朋子(ともこ)さん。
まさに家族一丸となっての快挙の達成だったようです。
最近家族関係の希薄(きはく)さが問題にされますが、まさにお本にしたいような濃密な家族関係ではないでしょうか。

「涙が出るほどつらくて、厳しくて、うれしい。」 
  
いいことばですね。三浦雄一郎さんの足跡を思い浮かべながらじっくり味わいたいと思います。
 


【5月25日(日)】  若き日の福澤諭吉(2)
  若き日の福澤諭吉(2)   【5月25日(日)】

 兄・三之助
の死により故郷中津藩(大分県)に帰った諭吉(ゆきち)は福澤家の主人になっていた。
そのため、簡単には大阪には戻れず、門番の仕事をしながら、悶々とした日を送っていたが、遂に
たまらず、母親の了解を取り付けて安政3年(1856年)11月再び大阪に出てきた。
師・緒方洪庵は大いに喜び食客生(しょっかくせい)として迎えてくれた。
 ちょうど
篤姫12月18日の輿入れの準備のため、江戸城に入城したころだった。

 
それからの諭吉は以前にもまして勉学に励み、遂に半年後、洪庵より適塾(てきじゅく)の7代目塾頭」
指名された。
塾頭になった諭吉は、単に書物を読むだけでなく、塩酸亜鉛を作って(すず)メッキをしてみたり、馬の爪の(けず)りくずから塩酸アンモニアを作ったりと、次か次へ新しいものを作ることに挑戦していった。

 1858年(安政5年)諭吉は
中津藩の蘭学の先生として江戸へ呼び出された。
それまで中津藩では、松代藩の
佐久間象山(さくましょうざん)に洋式砲術を教わったり、薩摩藩の伊東玄朴(いとうげんぼく)より洋書の読み方を教わっていた。
諭吉は中津藩の鉄砲洲(てっぽうず)にある中屋敷の長屋に一軒を与えられここで中津藩の子弟たちに教えることになった。
    これが後の
慶応義塾(けいおうぎじゅく)の原型となる小さな塾の始まりであった。
 
 この頃、年は同じだが適塾の先輩にあたる
橋本佐内が「安政の大獄」により奉行所に拘留されており、同じく適塾の先輩になる2代目塾頭・大村益次郎とともに心配をしていた。
長州出身の大村益次郎はすでに江戸で
鳩居堂(きゅうきょどう)という蘭学塾(らんがくじゅく)をやっていたが二人の力ではどうすることも出来なかった。

 
1859年(安政6年)5月28日幕府は神奈川(横浜村)、長崎、函館の3港を、ロシア、フランス、イギリス、オランダ、アメリカ、の5カ国に対して開放し、自由貿易を許可した。(神奈川条約
そのため横浜には多くの外国人が集まるようになった。
諭吉は何とか外国人と接触して話をしてみたかったので、ある日鉄砲洲(てっぽうず)から横浜までやってきたが、看板の字も読めないし、オランダ語で話をしても、まるっきり通じない。
この数年間、まさに寝食を忘れて必死にオランダの書物を読んできたのは、いったい何のためだったのか。
新しい外国語の知識を身につけて、開国後もきちんと外国人と対等に渡り合えるようにするためではなかったのか。それが無残にも打ち壊されてしまって、意気消沈して長屋まで帰ってきた。

 ここからがすごい。「
洋学者にして英語を知らないのは、酒屋に酒がないようなものだ」と、思い切って方向転換をしてしまった。
ちなみに、
大村益次郎のほうは、英語は必要ない時間の無駄だと、むしろ諭吉をとめにかかった。
当時江戸にもまだ英語の出来人は少なかったが、
ペリーの再来のときや、プチャーチンが再来したとき通訳をした森山多吉郎という人に頼み込んで教えてもらうことにした。
しかし忙しい森山だったので、出勤前の朝しか時間がなく、なんと2里(8km)の道のりを毎朝歩いて習いに通ったがいつも教えてもらえるとは限らずなかなか上達しなかった。
この頃ここで書生をしていた
福地源之助(ふくち げんのすけ)に出会っている。

 その後
蕃書調所(ばんしょしらべしょ)箕作阮甫(みつくりげんぽ)に入門を願い出、許可された。
それだけでなくあちこちに声を掛け英語をともに学ぶ同士を探し、一緒に苦労をしながら英語打ち込んでいた。
そんな
安政6年(1859年)の暮れ、幕府が日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ)交換のためアメリカに使節を送り、そのとき随行艦(ずいこうかん)が一隻行くらしいといううわさを聞きつけた。
何とかアメリカに行ってみたいと言う気持ちがつのり、(つて)を求めて提督の
木村摂津守(せっつのかみ)を紹介してもらい直談判の結果何とか一行に加えてもらえることになった。
安政7年(1860年)1月13日諭吉の乗った咸臨丸(かんりんまる)は大きな夢と期待をのせて品川沖から出航した。
諭吉の飛躍の始まりであった。
 
 ちなみに、昨(安政6年)10月7日、
橋本左内処刑。10月27日、吉田松陰斬首(ざんしゅ)の刑
国内では「
安政の大獄」という嵐が吹き荒れていましたが、それも諭吉がサンフランシスコでアメリカ人たちに歓迎されている3月3日桜田門外で大老井伊直弼(いいおすけ)が暗殺され一段落を迎えることになりました。

【5月24日(土)】  若き日の福澤諭吉
   若き日の福澤諭吉(ゆきち)〈1〉   【5月24日(土)】

 福澤諭吉が蘭学を始めることになったのは19歳のときだった。(安政元年・1854年)
帆足万里(ほあしばんり)に儒学を学んでいた兄・三之助が、自分の代わりに長崎に行ってオランダ流の砲術を学ぶように勧めたからだった。
前の年(嘉永(かえい)6年・1853年)ペリーが来航して以来、外国の脅威備えて砲術の必要性がにわかに叫ばれ始めていた。
諭吉はそれまで漢書を学んでいたが、特に難解といわれている「左氏伝」(さしでん)を15巻すべて通読し、それも11回も読み返しすべて暗記していたようです。
 
 長崎に遊学した諭吉は、薩摩藩から長崎に学びに来ていた松浦鼎甫(ていほ)という医学生について学び始めたが、すぐに物足りなくなり、学に優れているといううわさを聞けばだれかれかまわず訪ねて行き教えを乞うたようです。
その後、高島流砲術(ほうじゅつ)の流れを汲む砲術家の山本物次郎(ものじろう)の家に食客(しょっかく)として入り込み、すぐにその家の一切を取り仕切るようになった。
しかし好事魔多(こうじまおお)しというように、彼の成長を(ねた)むものが策を(ろう)し中津藩(大分県)へ帰るように仕組んだ。
しかし中津藩に帰る気のしない諭吉は江戸で勉強しようと、友達の(つて)を頼って江戸へ向かった。

 途中、当時大阪にいた兄・三之助の下に立ち寄ったところ反対され、大阪で緒方洪庵(おがたこうあん)
適塾(てきじゅく)
で学ぶことになった。
388人目の弟子
だったようです。ここからが本当の蘭学修行であった。(安政2年・1855年
 
 このころの勉強の仕方は、先生の授業を聞くのではなく、「会読」(かいどく)という方法であった。
これは皆の前で自分の分担分の原書を読み、訳し意味を説明するというやり方だった
これが月に6度ぐらいあった。一見簡単なようであるがこれがなかなか大変なことであた。

 まず、会読に決められた原書は一冊しかなかったから、それぞれが写し取って会読に臨まなければならなかった
原書を読みくだくには、辞書に頼るしかほかに道はなかったが、その辞書も一冊しかなかった
しかも分からないからといって、誰かに聞くことは出来ない。
  会読本については一言半句(いちごんはんく)も他人に聞くことはご法度(はっと)だった
 
 だから当の諭吉むさぼるように勉強している。ほとんど昼夜の区別もなく、日が暮れたからといって寝ようともせず、読書に疲れて眠くなれば、机に()()して眠った。
 布団を敷き、夜具(やぐ)をかけて枕をして寝たことはただの一度もなかったようです。


 すさまじい学習量です。これだけ真剣にやればかなりのことが出来るはずです。
しかし不幸なことに安政3年(1856年)3月腸チフスにかかり緒方洪庵の必死の治療のもとやっと回復したが、その年9月に、兄三之助が死んでしまい中津に帰ることになり、「適塾」での学習は一時中断ということになる。

 時代が違うから当然といえば当然ですが、今の我々がいかに学習環境に恵まれているか改めて痛感します。
何かが足りないから勉強できない」なんてのは単なる甘えに過ぎないということがよくわかります。

【5月23日(金)】   困難が人を成長させる
   困難が人を成長させる   【5月23日(金)】  

 女子バレーが韓国を破り5連勝で北京五輪の出場を決めました。おめでとう。
喜びの中で、竹下主将の第一声は「やっと北京のスタートラインに立てた」でした。
五輪出場権を得て浮かれる様子もなく、次の勝負に賭ける気迫のようなものが伝わってきます。

 勝利の原因の一つに「今回は一人ひとりの気持ちが引かず、点を取るという強い意欲があった」意気込みの強さをあげていました。
前回のアテネ五輪では、準々決勝で負けていますが、「出るだけで満足した自分がいた」という
悔いを残し、反省の4年間を送ったようです。
  
 竹下主将高さとパワーがものをいうバレーボールで159cmと身体はひときわ小さいが、
そのハンディーを決して言い訳にしない。
「私じゃなきゃ出来ないことがる。諦めたら逃げたことになる。」反骨心を原動力に、走り続けチームを北京五輪に導いた。
途中決して順風ばかりではなかったが、
  「いいことも悪いこともあった。でも困難が人を成長させると信じてきた」とすべて前向きに対処して、「死に物狂いで戦う」思いをトスに込め北京五輪の切符を手に入れたようです。

 何かを成し遂げる人、手に入れる人は、やはりすごいものです。
         我々もいま自分に出来ることに全力でぶつかっていきましう。

  

【5月14日(水)】   修行
  修行(しゅぎょう)   【5月14日(水)】  

 人間は、くやしいからこそ、泣きながらでも勉強する。
だから我々のほうでは、修行中の者には、ムリにも悔しがらせるように仕向けます。
 つまり悔しがらせることで刺激を与えるわけですな。
そういうことを昔は師匠がやった。師匠がやらなければ兄弟子(あにでし)がやった。
しかし中には、悔しいといって失敗する人もありますよ
     私は、そういうのは、(こころざし)がないからじゃないかと思う。

あれば、見返してやろうとするだけの実力をつけるはずですから。

そりゃ、勉強にしろ修行にしろ、厳しいものであるし、つらいものでもある。だから、
 悔しくて失敗する人というのは、結局、それに耐えられなかった人ということになります。

ま、そういう観念論でなくても、悔しいからといってくじけて勉強しない人というのは、
よく観察するとわかるが、大体刹那的な遊びごとが好きです
那的な遊びごとの好きな人には、金銭ばかりじゃなしに、才能まで浪費する人が多い。

 その逆が、貯金をする人です。
貯金が出来る人というのは忍耐力があるし、金銭以外のものも、貯蓄する精神があります。
やはり、貯蓄してゆく精神のものでないと、いかんのじゃないですか、勉強とか修行の道に入るものは。

 話がもとに戻りますが、だから
    貯蓄の心のあるものは、たとえ悔しい目にあっても、それに耐えていける。

そこがまた師匠や兄弟子のねらいなわけで、なんかこう、昔は
     くやしがらせることが、仕込む定石(じょうせき)みたいなもんだった。
そしてそれで発奮する。そこがいいんじゃないですか。
 それで辞めていくようなやつは、何をさせてもダメなんで
               そういうのは間引いてゆくということで、いいことですよ。
  ま、一種の自然淘汰というわけです。

             升田幸三 著   人生は日々これ戦場  『勝負』  より
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